新内横丁の調べから

第26話  邦楽界初の「天覧演奏会」後記1
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

それは一言の「言葉の種」から芽が出て実がなった。
平成17年9月10日紀尾井小ホール[鶴賀若狭掾リサイタル]に天皇・皇后両陛下がお出ましになった。邦楽界では初の歴史に残る個人の天覧演奏会が催行された。
平成13年に重要無形文化財保持者に認定され認定式の後に皇居に招かれた。7月の猛暑の日であった。陛下よりお言葉を仰ぎその後お茶会が催された。その席の配置が私にとって幸運であったと思う。
両陛下とのお話の中に新内の説明や新内界の現状実情を申し上げた。最後に私の隣の皇后様に「是非一度新内をお聞き願いたいです」と申し上げたところ「新内を聞いてみたいものです」と仰って席を立たれた。
言葉の種を蒔いた。私は嬉しかった。そのお言葉を忘れない、絶対忘れない、いつか必ず実現出来ると希望が心に湧いた。
私の友人が当時学習院の同窓会(桜友会)の事務局長をしていた。両陛下とも親しい間柄でよくお会いになさる方である。その後彼に会う度に「皇后陛下様にお会いになったら僕のこと、新内のことを申し上げて下さい。必ず覚えていらっしゃるから是非とも新内をお聞き願いたい旨を申し上げて」と切望した。それから数ヶ月過ぎてから嬉しい報せをいただく。
「新内を聞いてみましょう」と皇后様が仰った。
天皇陛下が「侍従に話すように」との御言葉を賜ったとの事。直ぐには信じられない。 「来年の私のリサイタルのスケジュールを知らせよ」との内密な連絡をその後いただき、ああこれは本当に実現するのかなと現実味をおびてきた。
6月の中旬頃宮内庁の渡辺侍従長様から色々尋ねたいことがあるから来なさいとお呼びがかかった。資料を揃え仮チラシと共に持参して初めて坂下門から宮内庁の建物の中へ入った。品の良い端整な侍従長とのお話に良い感触を得て下界に戻った。
7月1日は忘れられない日となった。その日、宮内庁から連絡があり「9月10日のあなたのリサイタルに天皇・皇后両陛下が公式にお出ましになります」と連絡が入った。
「エエ本当…? ありがとうございます」と緊張気味にまずお礼の挨拶。でも本当にお出ましあそばすのかしら…狐につままれているのかな…等とまだ半信半疑。その当日が来るまではずっと心配し続けることになった。
さあそれからが大変煩雑な仕事と綿密な打ち合わせが待ち受けていた。特に最重要課題は警備の問題。宮内庁との電話とメールのやりとり。紀尾井ホールでのチェック。一般来場者の住所氏名職業の確認と、来場者への発送の中に当日の注意書き(荷物は小さいのを一つ・男子はネクタイ着用・代理人は不可等々)同封。座席の配置配分。そして演奏会でのやるべき業務・リハーサル等々沢山の仕事の山。注意深く詳細に行う。
平成17年9月10日(土)歴史的な日となる
天候 晴れ 残暑あり 体調良し 世間も平穏
分刻みのスケジュールで私達主催者側も忙しく気配りは真剣であった。
この度の新内上演演目は当初から迷わずこの2曲に決めていた。「蘭蝶」は新内の代表曲で、最も新内の雰囲気漂う艶のある名曲であるから外せない。「一の谷嫩軍記」は軟派と思われがちな新内の中にあって浄瑠璃性の価値高い名曲として選曲。端物と段物の両方を是が非でも両陛下にお聞き戴きたいと強く願っていた。
1時間の中に2段は無理とは思ったが2曲を短縮する事で侍従長様の御了解を得ることが出来た。2曲の鮮明な対比は面白く飽きさせないと確信を持っていた。
そして・・・・・・。
(つづく)

新内横丁の調べから

第25話 海外演奏旅行 16(ポーランド編②)
クラクフ公演 慈善真心に感動
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

日本とポーランドの関係は歴史的に深い強い絆があり、親日、知日国として知られる。それ故に日本の文化芸術に憧れを持ちそしてよく学んで理解する国民のようである。ポーランド人と日本人は気質や感性が似ているともいわれる。
当地を初訪問したときから私はそう感じ、親しみを強く覚えた。
また今回の演目の選定も良かったのか、公演は字幕を出さなくとも、観客(99%ポーランド人)の皆さんが、曲の内容を正確に理解してくれたようで、終演後のレセプションでそれを実感した。
世界的な映画監督で、昨年90歳で亡くなった故ワイダ氏は、大変な親日家でこの公演を大変楽しみにしていらしたが、ワルシャワ公演の中止を残念がっていた様子と聞く。クラクフへはワイダ監督の代りに奥様がお越しになり、感動され賞賛を受けて私達が感動した。
会場のマンガ館には、館長達の発案で日本の大災害支援のための募金箱が設置され、そして集まった義援金が日本円で約300,000円以上であった。
1705021.jpg漫画美術館に置かれていた東日本大震災への募金箱
入場者の殆どが学生や若者達で、その乏しいお財布から頂いた尊い義援金であった。何と温かい優しいお心の持ち主の若人かと、胸が熱くなる。
アンコール曲を演奏後、観客に日本国を代表して御礼の言葉を述べた。そして必ずこの貴重な支援金を被災地なり、支援機関にお届けすることをお約束し、お預かりしてきたのであった。そして日本が復興した目途が付いたなら、またクラクフへ再び戻ってお礼の公演をすることを約束してきた。大きな拍手をいただき、必ず来よう…と心に誓った。
また前夜、アメリカ領事館から私達一行がレセプションに招待された。領事夫人が日本人で是非我々を招いて食事をしたいとの申し出を受け、全員で出席した。この席は本来、我々一行8名だけが招かれる会であったのだが、日本の大災害を知ってクラクフ市の著名な方が50名以上集まった。アメリカ領事が日本の災害の実情を話されて「日本の復興支援をしましょう」と呼びかけていた。そしてご来訪者に募金をお願いしていた。お礼を込めて新内を語り日舞を披露し尺八を演奏し、私がお礼の挨拶を述べた。
世界中が支援を申し出ているが、ポーランドでも国民の多くが、この度の日本の災難に心配と同情を寄せていることが強く感じられた。
そのクラクフ市内で忘れ得ぬ感動した出来事があった。リハーサルを済ませて会場からホテルへタクシーで戻り、乗車料金を支払おうとした。すると40代位の運転手さんが私達にむかって「日本が大災害を受けたので、私の心ばかりの支援ですので、タクシー代は結構です。復興に頑張って下さい」と云われたのである。
一瞬私は言葉を失った。同乗の仲間の女性は泣いた。これは真の慈善の心、誠の愛です。中々に出来る行動ではない。果たして自分がこのような立場に遭遇し、こういう心を使えたか。ドネイト精神を発揮出来たか。
豊かでない生活と思われる運転手さんのご厚意に、何か自分が気恥ずかしく思った。丁寧にお礼を申し上げて降車した。そして私の人生観が少し変わった。
心に残る美談であったので帰国後多くの人々にこの話を披露したところ、全員が感動し、新聞にも掲載された。
マンガ館よりお預かりしてきた貴重な義援金は、帰国後に東京新聞社の編集局長にお渡し、被災地へ送られた。その旨日本大使館及びクラクフのマンガ館へ報告した。 そして翌年、再びポーランドを訪問してお礼の演奏公演をして来た。

新内横丁の調べから

第24話 海外演奏旅行 15(ポーランド編①)
東日本大震災直後のポーランド公演
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

あけましておめでとうございます。酉年の幕明けです。
地震国日本。昨年も熊本地震があり甚大な被害を受け、復興もままなりません。また東日本大震災から早くも6年が経過しようとしています。
悲しみは突然にやって来る。天災は忘れた頃にやって来る。いや日本人は忘れてはいません。
日本は災害の国です。毎年毎年、地震や台風水害と火山爆発が各地で起きて大きな被害を被っているのです。しかし東北地震は余りにも大き過ぎて想定外であり、人間の予想をはるかに超えた天災でした。
その日本中が騒然としている最中、翌々日の13日に、私は前年から企画されていた在ポーランド日本大使館主催のショパン生誕200年記念事業公演のためにポーランドへ飛び立ったのでした。
歳月は流れたがその時の公演と事件について簡単に記したいと思う。
その日、複雑な思いで成田空港に向かい、前日は欠航しこの日も飛ばないかもと予測したが、フィンランド航空は予定通りの出航であった。日本も心配、残す家族も案じられる。しかしポーランド公演の2か所ともチケットはソールドアウトでもあり、芸人として日本人としてキャンセルは出来ない…そんな思いを胸に、一行8名が日本をあとにしてワルシャワへ到着。
余程の厳寒と思っていたが、それ程ではなく一先ずホットした。
明くる日、会場にて現地のスタッフと出演者全員で舞台の照明や音響や大道具の仕込み、そしてリハーサルにかかる段取りになった昼食後、日本大使館から公使が沈痛な面持ちで入って来た。公演中止の命令の知らせで来たのであった。外務省通達で世界中の日本大使館の文化行事は当分(期限なし)中止と決定との事。ここまで来て何故…ショックと落胆の8名。
本番のあるはずの15日は浮いた気持にもなれずにショパンの街を少し観光する事にした。
ワルシャワは第2次世界大戦でドイツ軍に徹底的に跡形もなく破壊された都市であった。ちょどこの度の大津波によって壊滅状態になった太平洋沿岸の街と同じ状態だ。それが市民達の大いなる努力によって残った図面や写真と人々の記憶によって少しずつ復興し、煉瓦のヒビに至るまで忠実に以前の街並みに復元されたのである。そして今でも修復工事が続いている。
力強い市民の精神力と情熱と祖国愛のエネルギーに感動しながらも、被災した東北地方の復興を願った。
このワルシャワ公演は中止を余儀なくされたが、クラコフは催行するとの決定の知らせが入り、明朝勇んで汽車での移動となる。
クラコフはワルシャワから南へ約300㌔、17世紀初頭までポーランドの首都であった。第2次世界大戦の時も破壊されることなく、国で最古の都市である。ここは14世紀頃からユダヤ人の難民を受け入れてきた為ユダヤ人が多く自由に住む事も認められ、自身で行政の自治権も与えられていた。
ホテルへ入ってからすぐ車でドイツ軍の強制収容所のアウシュビッツ博物館へ。ぜひ見学をしたいとお願いをしていた場所であった。ユダヤ人大虐殺の収容所の跡を見た感想はここでは省くことにする。
クラコフ市でも日本の大災害はもちろん大きく連日報道され、我々の訪問も新聞やテレビ等のマスコミで取り上げられ、私もインタビューを受けた。その効果で会場は、入場者が殺到して大入り満員となった。
会場は「日本美術技術博物館マンガ」である。ここは著名なコレクターが集めた日本美術品を7000点以上収集されてあり、主に葛飾北斎の浮世絵が数多くある。
「漫画」とは日本画の収集家で膨大なコレクションを所有していた男性のペンネームで彼の寄贈がこの「漫画美術館」の創立に至った。彼がエッセーシリーズを出版した時「北斎の浮世漫画絵」のタイトルからこのペンネームを取った。
ここでの公演に際しては忘れ得ぬ感動的な出来事がいくつか起こった。それはもちろん、東日本の大震災に関連する出来事であり、次回に掲載。

鶴賀若狭掾便り

春の柔らかな空気に心地よい日が続いております。世の中は色々と騒々しいようですが、本日は江戸の粋と艶の世界にひと時お付き合いください。新内を趣味に持つということは、かなりの芸好きであると思います。
新内は、最初に「蘭蝶」を習いますが、20分位の演目を覚えることはたやすいことではありません。習得するペースは人それぞれですが、こうした発表会に出ることでかなり上達致します。
人前で芸を披露するということは、お稽古に対する真剣さも自ずと変わって参ります。ベテランから初舞台の者。皆、真剣に粋に楽しくお稽古してきました。プロの演奏家とはまた一味違った良さがあるかと思います。どうぞ最後までお楽しみください。

新内横丁の調べから

第23話 海外演奏旅行 14(イギリス編 ③ スコットランド)
古都エジンバラで詩を原語で語る
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

目的地訪問の運転は僕もやるがほとんど弟子の鶴賀伊勢吉がハンドルをにぎり、僕がナビゲーター。鶴賀伊勢吉は免許取立てであったが良く頑張った。本来の新内の仕事より骨が折れたと思う。
ロンドン市の中心部の道路は慣れないと非常に分かり難い。迷って何処を走っているのか分からなくなって往生した。だが郊外は殆ど信号がなく、ラウンドアバウト(ロータリー)が大変に合理的であると感心した。日本にももっと取り入れるべきである。 ロンドン市内から一路北へ車を走らせた。なだらかな丘陵地を地図を見ながらスコットランドへ入る。途中で中世のお城の廃墟を見つけて観光しながら走り、小学校を訪問してエジンバラに到着。
今回最も訪ねたかった古都で、中世そのまま遺す旧市街と古城。落ち着いた街並みと石畳を歩くと現代を忘れさせる。日本の古都とは違った趣がある。エジンバラ城に登るとタイムカプセルに入って中世の騎士になったような気分になった。
1701231.jpgエディンバラ城にて
出掛ける前に私の娘に是非食べて来いと言われて、紹介された店でハギスを食べた。「ウーンこの味は好き嫌いがあるなあ」、私はまあ好きだけど。
他の店でワインとスコッチウィスキーでムール貝を鱈腹食べて大満足。
さて本業に戻る。
まず総領事に招かれてのレセプションが領事館で開催された。総領事ご夫妻をはじめエジンバラ大学の関係者、駐在の商社の日本企業の駐在員他20名程がいらした。
1701232.jpg総領事夫妻と鶴賀伊勢吉と共に
舞台もない応接間で新内「らん蝶」を語った。ほとんどスコットランド人ですので、曲の内容を簡単に説明してから日本語で語った。
約15分の演奏であったが、前列に座ってた当地の女性がハンカチで涙を拭っていた。曲の内容と哀愁ある曲調に感動したと述べていた。繊細な感性の持ち主なのでしょう。スコットランドが一段と好きになった。
明くる日は、エジンバラ大学の講堂での演奏会。前夜の領事館に来た人たちも含めて150名程が集まった。歴史ある素敵な講堂内で、静かに開演を待っていてくれた。
1701233.jpgエディンバラ大学での公演前
まず日本語で新内を2曲語った後、私は当地のスコットランド語で語りたいものがあったのです。それは「蛍の光」等の作詞で日本でも知られる、スコットランドの英雄的な詩人「ロバート・バーンズ」の詞(レッドレッドローズ)を新内風に即興で語るというものです。しかもスコットランド語で語る。当地の原語は英語とはかなり相違がある事はご存知の方も多いと思う。このパフォーマンスは少し困難な挑戦かとも思い心配であったが、これはこの大学へ来る事が決まっていたときから温めていた演奏である。
お集まりの皆さんは興味津々の面もちで始まるのを待っている。近頃滅多にない舞台だと三味線を弾く手も語り口にも集中力を高め真剣である。約十分の演奏であった。私も少し緊張、聞く人も緊張しているようだ。語り終えた。さあどうなのか反応は…?
立ってお辞儀をすると大きな拍手とともにスタンデイングオベーションで、喝采を送ってくれた。この拍手は自国の英雄作家の詩を現地語で新内化して語った意欲と熱意に対してのお礼と、親しいみを感じて下さったのと、社交辞令も入っているのでしょうが、私は素直に嬉しかった。これが理解し合える親善外交といえると思う。
終演後、ロバート・バーンズを研究している先生が私に「2~3年後にバーンズのミュージカルを日本でやりたい、本も出来てあるので是非協力をして下さい」と言ってきた。でもその後何も通知がないので実現しなかったのかな。
因みに「蛍の光」は英語圏では《大晦日ソング》として唄われているのです。
スコットランドの歴史と芸術に敬意を表しつ、音楽の道で一つの交流が繋がったと感じつつロンドンに車で戻る。
海外公演は苦労の連続であるけれども、観光旅行では味わえない経験と感動に出会える楽しみが多い。特にこの文化交流使の仕事は、個人で総てを企画し作戦を練っての遠征である。今思えば四45日間の海外公演は、生涯忘れ得ぬ楽しい貴重な体験の連続の想い出となった。

ご挨拶

会主 鶴賀若狭掾 鶴賀流十一代目家元
新内浄瑠璃=重要無形文化財保持者(人間国宝)

新内の元祖たる初代鶴賀若狭掾が生誕して本年は数え年の300歳に当たります。
初代の節目のお祝いの会を開催出来ます事は、11代目の私にとりまして誠に幸運であり、此の上なく光栄な出会いの一期であると感激をしております。
新内が初代以来、多くの後継者を経て発展を遂げ、伝統音楽として脈々と現在に受け継がれています。創始者がいてこそ流派が存在します。
本日の新内演奏会は初代の作品を主に、大いなる感謝を込めて、初代に捧げ誠心誠意一曲入魂の心で、偉大なる新内の始祖を讃えたいと思います。
また弟子の鶴賀伊勢吉は、永年弛まざる鍛錬を重ね修業に励み、この処著しい芸の上達を認めて、この節目に鶴賀流の継承者としての自覚のもとに、鶴賀流の分家家元に取り立てる事と致しました。鶴賀流の正当なる芸の習得伝承はもとより、向後益々芸道精進に命を懸けて取り組まねばなりません。私同様に今後ともご支援ご叱責賜りまして、大きな芸人にお育て下さいますようお願い申し上げます。
ここに過去・現在・未来が一堂に会し、鶴賀の系譜を見るような会となりました。目出度きこの演奏会に多くの諸先生方のご出演を賜り、素晴らしい舞台を飾って下さいます。義太夫節人間国宝の竹本駒之助師匠、若柳壽延家元さん、清元梅寿太夫・紫葉師ご夫妻、花柳貴比さん、大谷祥子さん、八王子車人形の西川古柳座の皆さん、望月朴清さんとその社中。新内協会から人間国宝の新内仲三郎師を始め理事の皆さん方の真心ある応援ご支援を賜っています。そして講談の一龍斎貞心師と藤間仁章師のお二人が会の進行を楽しく盛り上げて下さいます。
永年の私のご支援後援者、ご贔屓の皆様の多大なご尽力を得まして本日の会が開催出来得ますのは誠に有り難い事と、私はじめ私の門弟一同と共に深く感謝を致しております。
因みに本年は私の師亡父鶴賀伊勢太夫の45回忌、母親の30回忌に当たります。また江戸の絵師「伊藤若仲」と「与謝蕪村」の生誕300年にも当たります。重ね重ね因縁を感じる年であり誠に感激も一入でございます。
私も少し年を重ねましたが、体調に留意してまだまだ新内道に打ち込み続けます。今後とも宜しくお引き立ての程御願い申し上げます。
本日は初代鶴賀若狭掾師の300歳の誕生日祝いの会として皆様と一緒に楽しく祝したいと思います。
皆様には晩秋の好日、ご多忙の中をご来駕賜りまして心より厚く御礼申し上げます。どうぞごゆるりと終演までご鑑賞下さいますようお願いを申しあげます。

新内横丁の調べから

第22話 海外演奏旅行 13(イギリス編 ②)
イングランドで心が通う演奏会
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

文化交流使の仕事が始まった。まず落ち着く先の確保。長逗留なので適宜の宿を見つけねばならない。当地で依頼した日本人コーディネーターに全て任せてあるが、果たして初めの宿は酷くすぐ変えてもらう。初めから難儀の連続であった。どうにか捜して落ち着いた。
訪問の初めの第一歩はレンタカーを借りる事である。これがまた簡単ではない。滞在中借りっぱなしではないのでその都度借りにバスで出掛けて行く。移民が多いので英語の発音が悪く(弟子の鶴賀伊勢笑が言ってた)手続きも面倒臭いが、毎回借りて兎に角走った走った。
1612031.jpgロンドン大学SOAS音楽課研究員、文学博士デービッド・ヒューズ先生と
ロンドン大学SOASでは、立ち見が出るほどの盛況。日本で暮らしていたこともあるロンドン大学SOAS音楽課研究員、文学博士デービッド・ヒューズ先生が日本の文化全体を解説してくれた。それから日本伝統文化を研究しているタイモン・スクリーチ先生が「江戸時代の時代背景」や「なぜこういう音曲ができたか、300年の新内の歴史はどうだったか」を、懇切丁寧に説明してくれた。私もその見事な解説に感心し、誠に参考になった。
その理解し易い導線と雰囲気作りによって、300人を超す聴衆がスーッと江戸時代に入ったようなムードの中で「らん蝶」と「関取千両幟」を語る。その後のいつもの質問時間には大勢の手が挙がり、中には新内の内容の男女平等に関するものもあり、私が「いつの世も悪いのはみんな男ですね、すいません…」と答えると大爆笑となった。洋の東西を問わず、物語の中の男女の関係性は普遍的な関心事のようです。
ゴールドスミス・カレッジでは、公演に先立ち民族音楽科の学生10人にワークショップを行う。音楽専攻の学生であり、初めてにもかかわらず三味線を非常にうまく弾ける学生が多く、質問も専門的であり、心が通う楽しいワークショップとなったものだ。このような若者が三味線に魅力を感じ興味を抱き、お稽古を積んで演奏が出来るようになれば、三味線音楽が普及するのになァ…と夢を持ったものだ。午後のワークショップの後、夜には大学の古い講堂で60人の参加で新内の演奏会を行い二曲語り、皆静かに耳を傾けて聞き入っていた。
その他イングランドでは、パーブルック、イーストボーン、嘉悦ケンブリッジ教育文化センター、ダーラム、ヘリテージ・ハウス・スクールとロンドン補習授業校等を廻る。
1612032.jpg嘉悦ケンブリッジ教育文化センターでの公演
この日本人補習校は、ロンドン在住の日本人の子ども達のために、土曜日だけ開かれている学校で、小学生から高校生までの子ども達が日本語の習得のため、または日本語の能力を落とさないために通っている。校内に一歩入ったら「一切の英語は禁止」という場所です。校内の飾り付けも、扇やこけし、提灯、だるま等何か懐かしい日本の古来の品々が展示されている。約150人の児童・生徒、保護者を前に新内の解説をした後、「日高川入相花王」を演奏した。子ども達から記念品を渡された。此処の子ども達にどうしても伝えたかったことを話した。
1612033.jpgダーラムの小学校で新内ワークショップに参加の子供達と
「君たちは、英語ができるから国際人だと思うな。そう思ったらそれは大間違いです。単に英語の言葉が話せるだけでは真の国際人とは言えない。日本の歴史、日本の文化をしっかり学んで、まず自国のことを知り教養を身に付ける事。日本の伝統芸能の何一つ知らず、他国の人から尋ねられて何も答えられずに恥をかいたという人を大勢知ってる。自国のことを学び、理解して初めて相手の国や人々、文化に対する想像力と理解力を持つことが出来る。真の国際人とはそういう人です。素晴らしい伝統ある日本人として誇りと自信を持ち、そして世界に発信し相互理解を成し得て国際人の使命を果たす。今一度日本を見直し再確認をしましょう」と。控室に戻ると校長先生から「私たちが言えないことを言ってくださってありがとうございました」とお礼を言われた。喜んでいいのか情けないのか…。
ここの生徒達のアンケートを帰国後日本に送られてきが、初めて聞く日本の伝統芸に感動したり興味を持ったり、知らなかった無知さに恥じたり、日本に改めて誇りを持ったりなどの感想を楽しく読んだ。

新作新内への取組み

日本の伝統文化芸術が失われつつあるのは悲しくも周知の事実です。伝統芸能音楽もその中の一つでもあり、消滅の危機が叫ばれて久しいようです。それ程案ずる事はないと楽観視する方も中にはいますが、私は心配性なのかその危惧を訴えている一人であります。
その理由は兎も角として、新内の発展伝承の打開策を考えなくてはなりません。その一つとして新曲を創作することも大事と考えております。古典をベースとした曲調に、現代人が理解しやすく、楽しく分かり易い内容の作品を提供する。古典も最初は新曲でした。
名曲を即創る事は無理ですが、試行を重ねて新内の門戸を広げ、徐々に古典の素晴らしさに触れて頂くのは大切な事です。
新内演奏家が新作の重要性必要性を理解して創作に力を注いでいます。今回はそのような意義から古典に加えて新作も入れました。厳しい環境の中でより一層新内の伝承継承に、協会として真摯に取組んで参りたいと存じます。
よろしくご指導の程お願いを申し上げます。

新内協会理事長 鶴賀若狭掾
平成28年10月2日

新内横丁の調べから

第21話 海外演奏旅行 12(イギリス編 ①)
文化庁の文化交流使の海外
派遣伝統と誇り高き英国 EU離脱以前のUK
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

文化庁が芸術家や文化人等、文化に携わる人々を文化交流使に指名し、世界の人々に深く日本の文化を理解していただき、外国人とのネットワークの形成・強化につながる活動を展開すること事を目的とする事業がある。ジャンルは多岐にわたり古典芸能全般、洋楽、作家、囲碁将棋、書家、華道茶道香道、庭師、左官、染色家、太鼓に津軽三味線等々と様々である。
その文化交流使に私が平成21年に指名された。私は海外公演で世界各国を廻っているので、その経歴から選ばれたのであろう。
期間は一年間・半年間・3か月間があり、世界中の何処の国でも大方選べるので、私はイギリスに決め期間は1か月半の派遣にした。
現在はEU離脱に揺れるイギリスに決めたのは知人の娘さんが、ロンドン大学留学中であったことと、また自分も以前から行きたかったからであった。
然しその準備は短期間の中で滞在中の宿、訪問先の学校との折衝、交通手段等は全て個人で行う。これらの活動は文化庁はノータッチ、全て交流使の裁量で準備するのである。幸いにその娘さんが日本人の女性コーディネーターを見つけてくれ、滞在中の間ずっと雇うが、当然ながら有料である。期間中の活動は全てお世話になり、彼女雇わなければこの事業は成立し得なかった。
その上お弟子の鶴賀伊勢笑(アメリカ人)と鶴賀伊勢繁も自費参加してくれて、鶴賀伊勢吉を含め総勢4名の総結集のプロジェクトであった。
今回の仕事の主はワークショップであった。そのために日本から稽古用三味線を3挺持ち込む。三味線は3部分(正確には4個)に分解出来るので、撥と一緒に大きなダンボール箱に詰めて日本から送った。
同行4人で自分が弾く三味線と荷物とダンボールを持って、レンタカーが移動手段。ロンドン市内を本拠地として訪問先はイングランド、スコットランドそしてアイルランドも廻った。イギリスは右ハンドルの左側通行であるから車を運転出来た。不案内な道路を地図頼りに、まあよく4,000キロも走ったものだ。

1609251.jpgレンタカーにガソリンを注入中

訪問先は小学校10校、大学6校、日本人学校、ハンディキャップ校の18校を廻った。内容は他と大方同じで、新内演奏とレクチャー、ワークショップと質疑応答である。
浄瑠璃(唄)は短時間ではとても無理。特に言葉の壁がある。その点楽器は誰でも楽しく扱えるので三味線を弾かせた。三味線はその都度、繋いだり、ばらしたりと一仕事だ。 一人一分程度の持ち時間なので、音を少し出す程度だが、皆興味津々で撥を持たせると熱心、珍しい音が出るので楽しいのだろう。

1609252.jpg英国の小学校でのワークショップ

また私が浄瑠璃を語ると目を丸くしたり、キョトンとした顔で聞いていた。
最後の質疑では小学校も大学校も中身こそ異なるが、興味を持って物怖じせず積極的に熱心で質問が多い。時間オーバーは毎度の事であった。ただ音楽性としはどう捉えているのかは疑問。
そして三味線の棹の木は何でしょう?三味線の糸は?撥は?等の説明はするが、問題のクエスチョン「皮」は何が張ってあると思いますか?と私から尋ねる。「牛」「馬」「兎」等の答えが出る。
欧米は動物愛護が強くその上家庭で家族同様の生活をしているので、この皮は猫や犬とは言いにくい。その時は学校の先生に判断をしてもらう事にしている。
「この皮は猫です。犬も使用します」と説明すると一様に「ワー」「キャー」と、驚く生徒、しかめっ面する子がいる、日本の子も同じ、三味線を知らない子が多いから。
この交流使公演の18校訪問した中から特に印象に残り、楽しく面白くかつ感動した演奏会等の幾つかを次回にご紹介したいと思う。

鶴賀若狭掾 新内ゆかた会2016

鶴賀若狭掾便り

オリンピック・パラリンピックに心躍る夏でしたね。日本人の活躍に励まされました。
夏の香残る9月。お暑い中、ご来場ありがとうございます。
11月20日の「初代鶴賀若狭掾生誕300年祭」という大きな会の直前ですが、お弟子さん方の日頃の研鑽を発表致したく、恒例の浴衣会を開催致しました。
初舞台からベテランまで一生懸命演奏させていただきます。今回、「酔月冗話」という私の新作も初お披露目致します。
最後までごゆっくりとお楽しみください。

日本の夏の音

ブラジルのリオデジャネイロで夏季オリンピックが開催されて日本選手の活躍に一喜一憂し、暑い最中に熱くなって応援してます。ブラジルは南半球ですので現在の気候は冬季ですから、それほど暑くはないのかもしれません。然し治安の悪さが懸念されていますから、選手も応援に出掛ける人も命がけでの遠征です。
猛暑の日本、夏のバカンスを海山に涼を求めて出掛けたいものです。日本の夏には夏の音があります。それぞれがどういう音に夏を感じるのでしょうか。セミの鳴き声、風鈴の音、花火の音、盆踊りの太鼓の音、夕立の雨音、高校野球中継の音等々と、夏特有の音が実感として耳に残ります。昔はそれに加えて金魚売りや風鈴屋の売り声が街に聞こえたものです。
都会と田舎では夏を感じる音も違いがあります。海の音や山の鳥や虫の音、森を抜ける風のざわめき、聴く人のゆったりのんびりとした心理状態もあり、また田舎独特の匂いが加味されて夏の想い出となります。
都会の暑さと喧騒を逃れて、非日常的な処で新内を聞きながら心身を癒したいものです。新内の三味線の音色は四季を問わず素敵です。

新内協会 理事長 鶴賀若狭掾
平成28年8月7日

新内横丁の調べから

第20話 海外演奏旅行 11(フランス編⑤)
ワインの街ボルドー、新内に酔う
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

あまり変化のない田園風景の中、快適な車中でボルドーへ到着。
ホテルは駅の近くで便利は良いが、部屋も設備も従業員もパリと同じ程度のホテルでもう慣れた。ボルドー市には路面電車が市内を走っているので、移動にタクシーを使わずに便利である。
世界に名高いワインの街であるボルドーへは美味しいワインが飲みたくて来た訳でもないが、大いに期待はして来た。当然ながらその前に演奏公演が控えている。
市街地から車で30分程の場所にある会場は、どちらかと云えば若者向けの公開スタジオステージで、日本の古典芸能には向かないかなという感じであったが、それも面白い雰囲気であった。
ここは日本大使館の紹介の公演で、書記官が同行してくれたのだが、実際には当地の総領事が動いての開催であった。が、その総領事が日本の古典芸能に興味がないせいか、知識と理解がないようであった。今後の日本文化交流の窓口として問題かなと思われる。
終演後のカーテンコールの後、質問が多くあるのはいずこも同じである。新内の説明や演目の解説はプログラムに掲載して渡してあるので余り質問はこない。ただ若者が「落語は知っているが新内との違いは?」と聞かれた。いささか困ったが新内は音楽であるという点から説明した。また三味線に興味を示す。それと踊りの衣装にも目を見張るようだが、当地は日本の芸能には殆ど出会わないので、物珍しさが先行して感動するまではいかないと思う。
翌日は待望のワインのシャトー廻りのバスツアーに参加し2軒のシャトーに案内された。余り期待した程ではなく、やはり5大シャトーに行くべきだったと皆の結論であった。
その夜は今回の総仕上げの最後の晩餐で、下見で来たフランス料理店「ガブリエル」へ。ここの料理とワインは、満足して舌鼓を打った。
然しまだこれでは終わらないのがフランスの良いとこで、ボルドーからの帰路、ドゴール空港までは新幹線のTGV利用。これがまた大変な思いをした。
まったく日本では考えられない事で、列車の入ってくるホームが決まっていないのである。全員がスーツケースと手荷物を抱えてホームの地下道で待機をしている。列車は遅れるし、進入して来る直前にホームが判ると、大急ぎで上がるが、今度は乗る車両が分からない。大きな荷物を持って右往左往して捜す。駅員も見つからないし、焦った事あせった事。若い連中でさえ汗だくで、このいい加減さに私は血圧が上がった。またフランスの悪口になった。
まあ大方何処の国でもこの程度が当たり前で普通である。日本が几帳面で親切で優しく礼儀正しく清潔で神経質過ぎるのかな。そして便利すぎるのかな・・・そして食べる物も美味しすぎるのかも。ある程度いい加減な方が生き易いのかも。快適になり過ぎるとそれが当たり前になり、少しの不便さやいい加減さに対応出来なくなる体質になって、身体と心が軟弱な感覚構造になるのかも・・・と思った。でも大らかさも程度があるけどなあ・・・それにつけてもやはり日本は素晴らしい国だ。
何かと云うと世の不平不満ばかり口にする日本人がいるが、総合点を付ければ日本は世界の一番素晴らしい国で、そして優秀な国民である事間違いないと確信し、私は大いに誇りを持つ。そう感じながら常に日本へ戻って来る。愛する日本は良い国だ、海外は辟易だと疲労度高く帰国。でもまた海外公演には行きたくなる。これも間違いない。

桜梅桃李(おうばいとうり)

新内協会理事長  鶴賀若狭掾

春風駘蕩の好季節となりました。山川草木は春の装いを寒い冬から心浮く春へと移ろいます。木々も梅から咲き初め、桃から李、桜と順に美しい花を咲かせます。
【桜梅桃李】という言葉があります。各々がそれぞれの特性を生かして見事な花を咲かせると云う事です。他人と自分とを比較するのではなく、他にはない自分だけが持つ、豊かな個性を伸ばして開花させる。人生も芸も同じ事が言えます。
芸は人と競うことではありません。勝つべきは他人ではなく自分です。芸は人間性が如実に顕われます。芸道に励み、鍛に煉を加え日々稽古に励む事に依って、己が心を磨き、辛苦を経て、慢心する事無く、魅力ある芸を身に付け、花を咲かせるのです。
芸に行き着く到達点はありません。若い人も年を重ねたる人も、芸を志す者は皆同じ、限りない道程を芸と格闘しつつ歩みます。まして若い人は美しい大輪を咲かせる無限の可能性を秘めています。
本日は文化庁補助事業に依っての意義深い「若手伝承者研修発表会」を開催して頂いたことに厚く御礼と感謝を申し上げます。

March 27, 2016

新内横丁の調べから

第19話 海外演奏旅行 10(フランス編④)
パリの空の下、新内は流れる
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

前回の渡仏から半年後の11月に、公演本番のため8名でパリに入った。今度は中型バスの出迎えで何の心配もなく市内に到着した。
新内3名、日舞1名、八王子車人形2名、照明1名。随行1名の計8名は、そのままパリ日本文化会館へ直行した。
随行のステファニー(伊勢笑)は下見にも同行したが、私の海外公演には度々同行していて、通訳や舞台スタッフの一員でもあり、私の付き人として、何かと世話になり本当に助けて頂いている有り難いお弟子さんである。そして何時も自費参加である。日本人より日本人的の処がある米国人だ。
日本文化会館はセーヌ川沿いのエッフェル塔の近くにあり、ホテルも会場の近くで何かと便利である。パリのホテルは狭いくせに高くて、3星でも日本のビジネスホテルよりお粗末である。トイレのウオシュレットもエレベーターも快適とは云えない。カフェテリアは大方美味しくない。パリ在住の日本人も食べ物は正直感心しないと言っている。高級レストランは多分美味しいとは思うが…。
悪口ばかり書いているようで、神楽坂在住のフランスの方にお叱りを受けそうだが、もちろんそれが全てではない。世界中が憧れる芸術の都、花のパリである事には間違いない。
公演は翌日の午後8時開演。朝から仕込みとリハーサルで大忙し。スタッフは1人。大勢連れて来る余裕がない。
さあ本番を迎える。今回は新内浄瑠璃が主体の公演である。パリっ子に受け入れられるか、理解されるか、そしてお客が何人来るのか…と案じつつ幕が開いた。 竹内館長の丁寧で行き届いた解説で始まる。続いて私の「蘭蝶」。場内は暗いが上まで見えた。殆ど満席であり安堵した。
2曲目は新内舞踊「広重八景」。鶴賀伊勢吉の語り。花柳貴比さんは衣裳も鬘も化粧も全て自分でやる。流石に衣裳の着付けを女性2人が手伝っていた。
3曲目は私の新内「一の谷嫩軍記」組討ちの段。上が素浄瑠璃、下は車人形が熊谷次郎と玉織姫を演じる。車人形の遣い方や動きが巧妙で珍しいのが受けたようだった。最終演目が終わった。大きな拍手がきて、カーテンはないがカーテンコールの拍手はきたのであった。
海外公演では殆どカーテンコールがある。然し今回は特に感動した。
パリの空の下、セーネ河畔に新内は流れた。嬉しかった。
2回の公演とも観客に受けたのであった。
ロビーでの打ち上げレセプションでもいい感触であった。
2回とも観客の八割はフランス人だった。どのような反応であったのかと心配したが、好反響であったと帰国後に聞いた。ただ惜しむらくはフランス語のテロップを出さなかったことが残念であった。観客にも指摘されたようで反省材料である。
2日目に楽屋へ差し入れてくれた、竹内館長のおにぎりと沢庵が最高であった。栄養失調気味の私はこれで生き返った。やはり日本食は最高だ。
丁度この時期、グラン・パレ国立ギャラリーで葛飾北斎展が開催中で、会場は長蛇の列で大人気。パリは日本ブームである。流石に世界の北斎であると誇りに感じた。
2日目の公演後、パリの日本大使館公邸で打ち上げ会を開いて頂いた。8名全員と日本から応援に駆けつけて下さった10数名の方々も含めて、美味しい日本料理とワインをご馳走になった。遅い時間であったが大使閣下夫妻のご厚意に全員が感謝感激であった。
翌日は「ルレーシャトー」の国際大会が日本大使公邸であり、50数カ国の人が集まった。そこでも新内舞踊を披露演奏して喜ばれた。

新作新内への取組み

新内協会理事長  鶴賀若狭掾

日本の伝統文化芸術が失われつつあるのは悲しくも周知の事実です。伝統芸能音楽もその中の一つでもあり、消滅の危機が叫ばれて久しいようです。それ程案ずる事はないと楽観視する方も中にはいますが、私は心配性なのかその危惧を訴えている一人であります。
その理由は兎も角として、新内の発展伝承の打開策を考えなくてはなりません。その一つとして新曲を創作することも大事と考えております。古典をベースとした曲調に、現代人が理解しやすく、楽しく分かり易い内容の作品を提供する。
古典も最初は新曲でした。名曲を即創る事は無理ですが、試行を重ねて新内の門戸を広げ、徐々に古典の素晴らしさに触れて頂くのは大切な事です。
新内演奏家が新作の重要性必要性を理解して創作に力を注いでいます。今回はそのような意義から古典に加えて新作も入れました
厳しい環境の中でより一層新内の伝承継承に、協会として真摯に組んで参りたいと存じます。
よろしくご指導の程お願いを申しあげます


新内横丁の調べから

第18話 海外演奏旅行 9(フランス編③)
パリの空の下、災難に遭遇す
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

30年振りにパリヘ行ったのが1昨年の6月であった。11月に催す公演の下見と打ち合わせを兼ねて、私と舞踊家の花柳貴比さんと弟子の伊勢笑の3人で出掛けたのである。
パリ市街は東京と違って新しい高層ビルが建てられないのか、条例で変えられないのか変えなのか、30年以前と余り変わっていないように感じた。
会場予定のエッフェル塔近くのパリ日本文化会館へ行き、照明音響等の舞台機構の確認、演目の相談の為に来た。
公演なしの下見の気楽な旅とのんきにやって来たが、それがいやはやとんだ目に合った。
まず空港へ着いた初日から大変苦労したのである。荷物を取ってバスで市内に行こうと玄関口に出た。そこにはバスもタクシーもない。一体どうしたのだろうと聞いてみると、「今日はタクシーもバスもストライキで走ってない」との事であった。日本では先ず考えられないことだと思うがサア困ったぞ、どういう手段で市内のホテルへ行けばいいのか聞いてみると電車を乗り継いで行きなさいと教えられた。大きなスーツケースを持っての移動で、汗だくで電車から地下鉄に乗り換えホテルへ向かう。エスカレーターもストップしているし、乗り換えも不案内で、困難この上無し。漸くホテルに着いた時にはへとへとでぐったり。下見とはいえ3名の個人的な旅行であり、付き人はおらず苦難のアクシデントから始まりであったが、然(しか)し同行の女性2人の力持ちには助けられた。
6月のヨーロッパは好季節である。花のパリも浮いた気分で数日間、雨にも相変わらず振られずにそれなりの滞在であった。
然しまた災難に会った。プランタンで買い物した日曜日の午後、街頭の骨董市をブラブラひやかして歩いた。天気も良く、さして購買意欲の起こらない〈のみの市〉を見て、途中カフェテリアで美味しくない食事をしてからオペラ座へ向かう大通りを歩いていた。すると前から来たマダム「ファスナーが開いているわよ」と連れの花柳さんのリュックを指差した(もちろんフランス語で)。咄嗟にやられたと思いリュックを見た。
ああ!盗られた。財布がない。中身は500ユーロとカード3枚。慌てたがもう遅い。腹立たしいがもう仕方なし。
現金よりカードが心配である。何枚かのカードが入っていた。なかなかカード会社と連絡が取れない。緊急を要する非常時にすぐ連絡を取れて対応出来るようにするのが会社の1大役目であろう。全く頼りなく手遅れになるぞと腹が立つやら焦ったりした。海外旅行者よ掏(す)りとカード会社に氣をつけよう。急遽日本大使館の友人に電話してカード会社に無効の手続きをお願いしてまず事なきを得た。
今考えると前からきて教えてくれた美人マダムは何者だったのだろうか…、「グルだな!」と思ったが「遅かりし由良の助」だ。盗られる方も悪いが盗る奴はもっと悪い。人事だが悔しい!
生き馬の目を抜くパリだから気を付けましょうぜ……との教訓を胸に納めた次第であった。然し私は海外40カ国以上回っているが、掏られた事は一度もないのだが……。本番を前に良い体験をした。
この後パリからボルドーへ行き、会場の下見と期待のボルドーワインを飲んで帰国したが、何かすっきりしなかった。
本公演は次回。

ご挨拶

会主  鶴賀若狭掾

暖かい霜月でしたが、皆様にはご健勝にて師走をお迎えの事と存じます。日頃は多大なご支援を賜りまして誠に有難うございます。
本年も多くの事件や甚大な被害をもたらした災害等が多発し、厳しい一年でありました。
文化芸術は太平の世の中にこそ発展があります。また文化芸術が果たす役割と価値は大きくそして重要な存在意義をもちます。
年年歳歳、伝統芸能も少子高齢化が進みます。私も高齢者の仲間ですが、お陰様で健康にして意気軒昂であり、新内の為に尽力貢献する壮年新内語りでありたいと願っています。
今回の新内の会は「明治の女・月三題」をテーマにしました。

  • 泉鏡花作「婦系図」の湯島境内の箇所を脚色作曲して【春の月】
    私のお弟子のベテラン二人による息のあった「お蔦・主税」の名場面。
  • 事実を基にした舞踊「酔月情話」の大川端での殺し場は皐月の【おぼろ月】
    藤間流の重鎮の藤間仁章師と花柳流の実力派の花柳貴比師による「お梅、峯吉」の舞踊劇
  • 樋口一葉作「十三夜」を脚色作曲して【十三夜】
    十数年以前の作品。樋口一葉が五千円札に載った記念に築地本願寺に於いて、今秋に逝去なされた故塩川正十郎先生が一葉を顕彰し法要を営み、その節に演奏した想い出深い作品。以来お世話になった塩川先生を偲びつつ、慎んで哀悼の誠をささげる鎮魂演奏です。
日本人の心に宿る(月)は陰の世界観。この感性を以て日本の文化芸術が月と一体感をなして育まれてきました。年の瀬を控えた初冬の一刻、月に心を映す物語をお聴きくださいませ。
本日はご来駕賜りまして有難うございました。


新内横丁の調べから

第17話 海外演奏旅行 8(フランス編②)
アヴィニヨン国際演劇祭参加 II
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

前号のフランス公演の話は30年以上前であった。当時は神楽坂の母の店「喜久家」が営業中で、母が現在の私と同年代であり、流行る店を達者に切り盛りしていた。私も新内活動の傍ら買い出しや、包丁を握っていた。
その開業中に1月半も、店や幼い子供を置いて海外公演に出たとは、今思えば母に迷惑を掛けたと申し訳ない事をしたが、然し楽しく得難い体験と観光をさせてもらった。
モンペリエ音楽祭からアヴィニヨン演劇祭まで、10日間程仕事はなく、その間を利用してドイツ・スイス・イタリアを廻った。トーマスクック(ヨーロッパ列車時刻表)を持って、アヴィニヨンからパリへ出て国際列車に乗り込む。ボンに友人を訪ねてから、スイスへ行きツエルマットで一泊。快晴のマッターホルン登山電車で登る。下山しイタリアのミラノへ。帰路は地中海沿岸を列車は走り、カンヌで途中下車し一泊して戻ってきた。
ホテルは予約なしの勝手気侭な旅をした。行く先々で楽しい出来事があった。周遊してアヴィニヨンに戻ったが皆さん心配していた。
ここの演劇祭は世界各地から招かれた集団で、期間中は大変な賑わい。町中がお祭り騒ぎで実に楽しいが、他国との交流は皆無であった。我々新内組の宿泊場所は、街から離れた閑静な新興住宅地で庭付きの一軒家をあてがわれた。4人で自炊の寝泊まりであったが、近所の子供達と大変に親しくなり実に楽しい滞在であった。あの時の可愛い子供達は現在どうしているかなア・・・・・・と時々思い出し懐かしい。小さな子供と大きな親善外交の交流をしたと思っている。
アヴィニヨンはローマ帝国時代から多くの変遷を経て来た宗教都市である。「橋の上で輪になって踊ろう」の童謡で知られるが、その橋は半分以上崩壊している。現在は歴史地区として世界遺産に登録されている素敵な街だ。
その石作りの館の中でのパフォーマンスであった。昔の建物の内部で殺風景で無機質な感じの壁面であるが、気の所為か歴史の闇と重みの中に人の気配を感じる。夜更けにはとても一人では居る事が出来ないと思った。7月でもヒンヤリとして、夜の公演であるから涼しいより肌寒い。
石室の中は音の響きは良く、特に楽器の共鳴は素晴らしいが、人の歌声は楽器に幾分負けてしまう。邦楽はそれほど音量の大きくない三味線の伴奏で歌う(語る)音楽である。特に新内は大胆で繊細な浄瑠璃であり、三味線も一音一音を大事に美しく弾く音楽でもある。両者が一体となって曲を創り上げる。泣き笑い怒り哀しみを高く低く強く優しく嫋嫋(ジョウジョウ)と訴える浄瑠璃なので、共鳴がかかり過ぎては内容がより細やかに伝わらない。かと言って野外の広い野原や運動場でも心理描写は叶わないが・・・・・・。アヴィニヨンの会場は雰囲気最高で気分良く語れた。
当演劇祭は世界中から集まる演劇集団と観客200名程の会場で観客は全員が外国人。現在ほど情報網が発達していないので果たして日本の古典芸能はどのように理解するかと案じた。新内流しの三味線が喜ばれるかなと予想していたが、語る声に感動したのか驚いたのか、その時の新聞の評にファンタスティックと書いてあった。これって喜んで良いのかどうか今でも疑問なのだが・・・・・・。

生涯修行の道

新内協会理事長  鶴賀若狭掾

【楽あれば苦あり】【楽は苦の種 苦は楽の種】と申します。苦労を厭わず我慢し努力を続けるならばそれがいつの日か楽しい事が必ずや訪れる。楽しみばかりを追い求め、苦労もせず努力を怠りなまけてばかりに過ごせば、いずれ必ず苦しめに会う。楽と苦の原因と結果は因果関係にあり、顕著にその結末が出てくる。
芸道は何事に依らず若いうちに苦労し努力して技術を磨き、知識を蓄え教養を身に付けるべし。頭は柔らかいうち、鉄は熱いうち…。
年を重ねる程に全てが衰えて行くとつくづく感じ情けない。【少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んず可からず】 若手と云われている内に寸暇を惜しんで芸を磨き、体力を鍛えよう。感性を常に磨き、感受性を研ぎ、興味好奇心を持ち続けたい。
そして生涯到達叶わない芸の崇高な域に向かい、芸道向上の努力は生涯持ち続けたい。
これは若きも老いも同等に持つ弛まざる尊い芸人精神であろう。芸の修業は苦しく、辛い、が楽しい物でもあります。芸は深遠で難しい存在です。だから楽しく苦しいのです。諦めずに継続して追い続けて邁進したいと願っています。


新内横丁の調べから

第16話 海外演奏旅行 7(フランス編①)
アヴィニヨン国際演劇祭参加 I
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

アメリカ公演は20か所以上の公演で、ハプニングや楽しい辛い切ない想い出が多くてまだまだ書き足りない。その面白い紀行はまたの機会に譲るとして、今回からヨーロッパ公演紀行文としましょう。
ヨーロッパは約20カ国出掛けた。二度行った国もあり都市では25か所以上(学校含む)で公演した。
最初に訪れたのは30年前にフランスでの公演であった。古い事ではあるがかなり鮮明に記憶している。
それは初めてのヨーロッパ旅行であるし、若かったので尚更感動が強く、多くの楽しい想い出が未だに忘れる事はない。青春の一ページの如くにその出来事が懐かしく脳裏に浮かぶ。
それは真夏のフランスに舞踊家と新内家の約10名が降り立った時から始まる。パリ・シャルル・ド・ゴール空港から開業したばかりの新幹線(TGV)の駅へ。揺られて乗り換えて、アヴィニヨン公演前に、南仏は地中海沿岸のスペイン近くのモンペリエ国際音楽祭参加。
そこから楽あり苦ありの始まりである。
ヨーロッパのサマータイムを初めて体験し、日没の遅いのに驚いた。
当地で現在も7月に開催される国際演劇祭に出演したが、到着早々最初の海外での災難に遭遇した。会場の楽屋で乾燥と暑さの為に三味線の皮が大きな音と共に破れた。まだ一度も演奏をしていないのに…。
海外での演奏に慣れていない当時、その応急処置の用意がない。現在は破れた皮用の緊急措置として白いビニールのガムテープを持参して行くのだが、当時はそんな物は存在してはいない。
今宵がフランス公演皮切りであるのにさあ困ったぞ……迄は覚えているが、公演はどう対処したのかな?
三味線は楽器として最大の特徴は胴(共鳴器)に張ってある皮。材質は猫か犬。絃は絹、弾く撥(ばち)は象牙である。糸は演奏中に切れる事があるが、皮も消耗品であり弛んだり破れたりするが、特に猫が破れ易い。此の事態が演奏前だと大変に慌てる。三味線弾きは殆どが体験者だと思う。
現在三味線の皮の入手が困難であり、いずれ人工の皮に変わるのはそう遠くないと危惧する。
音色が必ずや変わってしまうのは必至である(三味線の実情は改めて述べます)。 此の時は多分セロテープでも貼って演奏したと思う。
この公演は【歌舞伎舞踊】がテーマであったので、舞踊が主であり新内演奏はおまけのような存在であった。
3人で新内流しを弾き、「蘭蝶」も語ったと記憶している。三味線は3人で弾いていたので何とか音も胴の破れた個所を隠しながら演奏したと思う。夜10時頃からの開演で涼しいが、初日にこの状態であったので冷や汗をかいた。
その後バスでアヴィニヨンへ移動したが、問題は解決していない。
その時持参した三味線は偶々変え胴(三味線は組み立て式で竿と胴が別になる)があった……と云っても日本に置いてきたのだが。その変え胴を電話で取り寄せる事にした。今と違い電話も大変な苦労。
どうにかマルセィユの空港へ届いたが、それからが大変に面倒な事で、高価であるが為(実際は安価な胴)関税を払えと云う。自分の楽器で間尺に合わないが決まりで仕方がない。色々あって結局マルセィユの日本総領事館に助けを求めて何とか決着した。 胴を取りにマルセィユまでTGVで出掛けた。アルルで途中下車、灼熱の太陽が照り付ける中、古代ローマ時代の遺跡である円形闘技場を3人で観光して戻った。
沢山の想い出を残した公演旅行で、次号に載せたいと思う。

師走を迎えて

本年は昭和90年、戦後70年等多くの節目の年でした。
そして世界中で災害、事故、事件が多発しました。快適な生活を追い求める社会の流れとは反して起きる悲惨な現状です。そして人間の際限のない欲望が地球を破壊するようです。
今年もあと1ヶ月で暮れて行きます。芸道を志す私達は芸の修行、鍛練に怠りはなくとも、社会人の一員として次世代を、未来を見据えて役目を果たして行きたいものです。
一年の総決算の節目を迎えて反省と希望を以て新年を迎えましょう。
新内協会理事長  鶴賀若狭掾
平成27年12月6日

新内横丁の調べから

第15話 海外演奏旅行 6(アメリカ編②)
アメリカ名門大学での公演
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

私の海外公演は殆ど八王子車人形との共演であると、既に何度も紹介しているが、果たして車人形とは如何なる人形であるかを説明していなかったようなので、そこで簡単にこの人形の仕組みを説明しておきましょう。
車人形は約200年以前に埼玉県入間にて初代西川古柳が創案した。その後多く人達により改良を重ね、また文楽の人形遣いの指導を受けて今の形を整えて来た。
明治の初めに2代目西川古柳が八王子で継承し現在に至っている。
人形の大きさは文楽人形と同じだが、文楽との違いは一人遣いで、遣い手は箱型の「ろくろ」に腰を掛ける。
そして両腕にて人形の頭と両腕を遣い、両足は自分の足の親指と人指し指で挟む。
ろくろ車は大変によく出来ていて、前後左右に自在に動く。約20 cm×17 cm四方に高さ25 ㎝の大きさの木の箱で、中に車が前に2輪と後ろに1輪入っている。
それが車人形の由来である。車椅子ではない。
頭も衣裳も200年以上の歴史ある芸術品である。
一人遣いなので動きが軽快敏捷で小回りが利き、且つコンパクトで軽便なので旅公演には最適である。
平成27年9月6日に神楽坂劇場で上演するので是非ご鑑賞頂きたい。(無料)
海外公演は車人形座が5名、新内が4名程の構成で、道具も少なくし、大方10名程度で出掛けている。
アメリカ合衆国は5回この人数で約20都市を回った。
1511171.jpgアメリカツアー中の新内と八王子車人形の演者とスタッフと共に
初の公演の時は大学8校を巡回した。ニューヨーク・ボストンを基点に、MIT、ダートマス大、プリンストン大、スミス大、ウィリアムズ大、マサチューセッツ州大他に行き公演した。
特にマサチューセッツのアマースト校には日本人の先生が在職しており2度訪問した。北大の「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士の母校である。
この大学は日本人の教師が多い事もあってか、生徒の日本文化の活動が盛んであり、我々の公演も大勢の生徒が集まり、反応も良く賑やかな喝采を受けた。英語新内が大きな成果を上げていると確信した。
大学の公演演目はやはり「弥次喜多」が主である。それと学生にワークショップを行う。車人形を持たせて人形の操り方を教え、車に腰かけて簡単な動きを指導する。
1511172.jpgダートマス大学での車人形ワークショップ
新内のワークショップでは浄瑠璃(語り)は無理なので、三味線と撥(ばち)を持たせて弾かせる。学生達は物珍しさと面白さとで興味律々で触っていた。そして教わってから後に我々の舞台を鑑賞すると、尚更感動するように感じた。
其々の大学では大方同じような反響で楽しい公演であった。ボストン市の世界的に有名な大学MITは、天才的頭脳の学生集団である為か、反応が今一なのは無理なしと思う。 然し理科も文科も、脳と心にバランス良く収めねばならぬぞとは、凡才のひがみか感性の違いか…などと悩みつプリンストン大学へ。
ここも全米屈指の名門校だ。ニューヨークのホテルに大学から迎えの車が来た。何と大型のリムジンである。さすがプリンストン大学と、嬉しいより驚いた。初めて乗った広い車内に新内組だけで行った。
此の大学は生徒ではなく教師達への講義と演奏で、日本人の先生が多く参加した。黒板に歌詞を書いて語るという授業形式で、有名校の先生達に講義する楽しみを味わった。新内宣伝の意義ある機会であったと感謝。
1511173.jpgプリンストン大学教室で新内を語る
その夜のディナーは最高であった。

巻頭エッセイ

落語と私 私と落語
鶴賀若狭掾

私が初めて落語を聴いたのは小学校5年生の時、ラジオ放送で古今亭志ん生師の「鮑のし」であった。はっきり記憶しているのは、あまり面白かったので母に内容を聴かせた。すると母はお父さんにも聴かせてあげてと言われた。帰宅した父(初代鶴賀伊勢太夫)に得意になって話した。面白いねと父も喜んだ。私は父母がこの噺を知らないと思っていたのであるが、後で父は中学の頃から寄席に通った程の落語通と聞いた。
やはりDNAだと思う。
私はそれ以来落語のフアンになる。父母ともよく寄席に通った。
私と落語の出会いはラジオだが、母と志ん生師との出会いは戦前に遡る。母は昭和3年に現在の私の自宅の場所で小料理屋「喜久家」を始めた。当時は飲む場所は少なく、母は中々の美人であったので店はかなり流行ったらしい。
戦前は神楽坂には寄席が数軒あった。その芸人さん達が大勢飲みに来て、その中に志ん生師がいらした。ご時勢が悪くなり店も閉業し、物価統制で酒も手に入らない。だが家には日本酒が豊富に有った。無類の酒好きな師はちょくちょく自宅の方へきて飲んでいたそうだ。
母から聞いた話だが、師が「今から満州へ行って来るよ」と挨拶に来た。お別れに来たのだわ、もう生きては帰れないのかも知れないなと思ったそうである。然し無事に帰国された。
そして戦後、上野の本牧亭で父の新内の会には度々いらした。気が向くと高座に上がりオツな声で新内をうなった。
「明烏後正夢」を師が語った時のテープが残っている。途中で新内を止めて都都逸を2曲唄っている大変に貴重なお宝で写真もある。他にも師の手書きの名刺や色紙等があり、世に出したいと考えている。
ご子息の馬生師も戦後、喜久家の2階で何回か同期クラス会を開いて下さった。
また志ん朝師と私は同い年で、高座に出始めたのも同時期でもあり長いお付き合いであった。晩年は私の近所に豪邸を構えたのでよく顔を合わせた。生きていれば私と同時期に人間国宝になっていた筈だ。
落語は難しい。話が旨くても駄目で、面白いだけでも駄目、可笑しくなくちゃ駄目。近頃は話術の優れた噺家が多いが、可笑しい人が少ない。
因みに私の好きな噺家は桂文楽、古今亭志ん生、春風亭柳好(三代目)。それに志ん朝を加えて4人のみ。全員故人ですな…。

「東京かわら版」平成27年9月(通巻503号)より

鶴賀若狭掾 新内浴衣会2015

鶴賀若狭掾便り

本日はご来場いただきまして誠にありがとうございます。
猛暑の日々でしたが、夏バテせず何とか乗り切りました。
昨年を振り返りますと、海外はパリ公演・国内に於いては国立劇場での新名取披露公演。小林幸子さんとの共演等大きなイベントが続きました。個人的な喜びとしては娘・孫3人と打ち揃って初共演でき、感慨ひとしおでした。
本日の浴衣会では落語を元にした楽しい新作を発表・初上演致します。八王子車人形との共演。弟子達が山形合宿で猛稽古した成果が期待できると信じております。
また、花柳貴比門下・孫の茉莉子と貴比さんの姪のくるみちゃんが舞踊で可愛らしい華を添えてくれます。孫(小六)の佳吾が「帰咲名残命毛」を語ります。
全員、懸命にお稽古しました。
どうぞ最後までごゆっくりお楽しみください。

新内横丁の調べから

第14話 英語新内 西海岸とハワイ4島
海外演奏旅行 5 アメリカ編①
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾
私が人間国宝に認定されてから、都内をはじめ地方でも祝賀会が開かれ、その上新内演奏も多くあり多忙を極め、ついにその年の10月に過労の為にダウンしてしまった。
又その年に神楽坂商店街振興組合の名誉組合人の称号を授与されたのでした。現在まで商店街の振興のお役に余り立っていないので、常々心苦しく感じている次第です。でも日本各地や、世界各国へ演奏に出かける折には、必ずトークの中や自己紹介では神楽坂の事を話題にして、多少なりとも宣伝をして役目を果たしている積りではいます。
その病後に無理をおして世界各国周りが始まった。
公演の殆どが八王子車人形と一緒で、新内を聞いて見せる分かり易い楽しい舞台ではあったが危険な旅であった。
先ず最初がサイパン島であった。島内や他の島の高校生相手の公演で、日本語のみの舞台であったので彼らには難しかったかも知れない。
1510051.jpgサイパン島での公演
太平洋戦争での激戦地で多くの犠牲者が出た場所であったが、地元の人達とも高校生達とも親しく交流を深めて来た。ただバンザイクリフへ行った時は激しく心が痛み辛かったが全員で手を合わせた。私達の年代ではサイパンへ観光で気楽に来る所ではないと感じたものだ。
演奏して早々に帰国した。
その年の夏には私の体調がまだまだ充分に回復せず、とても海外遠征は無理な状態であったが、以前から決まっていた仕事であるので止むなくアメリカへ行く事となった。
車人形と一緒の旅であるが、私の体に自信がなく新内を語れない時もあろうかと思い、万が一に備えて同演目を吹き込んだテープを持参した。
初めの地のシアトルでは早速にそのテープの出番が来た。開演前になった楽屋で、長旅の疲れから血圧が高くなり目まいがして来て、とても語れる状態ではなかった。
前日のシアトル・マリナーズの野球観戦が悪かったのかな。
同行のお弟子さんで、伊勢笑の知人のマリナーズのオーナーからイチローの試合に招待された。試合途中にバックボードにWELCOME・WAKASANOJOと掲示され嬉しくなってはしゃいだ所為かも知れないと反省した。
その後にテキサス州のサンアントニオ市に行ったのだがそこでは尚更体調が悪く、倒れて入院するかもと思った。
この街はメキシコに近く、スペイン語が主流である。
劇場は忘れたが此処ではどうにか語る事が可能であった。
今回も主な演目は車人形新内の「弥次喜多」の「赤坂並木の段」でチャリ物(喜劇)だが、まだ英語新内を少し挿入しただけなので、観客がどの程度理解出来たかは疑問だ。ただ人形の動きが大変に面白いので、笑いは随所に起こったのでまあ大体の内容は伝わったようである。
1510052.jpg五代目西川古柳家元と舞台挨拶
そして徐々に英語のセリフを増やしてアメリカバージョンにした。
本土を離れてハワイ諸島へ移動して行ったのであるが、やはり身体の調子が良くないので4島公演できるのか不安であった。果たせるかなオアフ島はどうにか語れたが、ハワイ島、カウアイ島、マウイ島は全て私はキャンセル、録音テープで車人形を操る事となった。お客さんはそれでも文句も出ず、満足したらしいので幾分私はがっかりした。
1510053.jpgハワイ公演後
レストランの選択が悪かった為か、この公演では美味しい料理に出会わず失望。
体調を整えて10年後に訪問した。
元気な時は良いが、海外公演は楽じゃァないですなァ。

暑中稽古 寒稽古

新内協会理事長 鶴賀 若狭掾
梅雨明けしてから猛暑が日本列島を覆います。
昔は寒稽古、暑中稽古が在りましたようです。
エアコンの無い時分ですからさぞや身体に堪えた稽古であったと想像が付きますが、そういった厳しい稽古をしてこそ芸が身に付き優れた芸人に育っていきます。緩やかにのんびりと適当にやるのは稽古ではなくただの遊びごと。素人の方も商売人も己に厳しく高い目標を持ち、師匠や先達の教えに随い稽古に励みたいとものです。その中に芸の深遠さに触れる醍醐味や楽しみ面白みを見出すでしょう。
刹那的な世の中に長いスパンの取り組みは人生を豊かにします。
新内と長---いお付き合いをして下さい。猛暑厳寒の中でも。
そして八月のバカンスをお楽しみください。
平成27年8月2日

フランス新内公演紀行

第3回 ワインの街ボルドー 新内に酔う
新内協会理事長・新内節人間国宝 鶴賀若狭掾
あまり変化のない田園風景の中、快適な車中でボルドーへ到着。
ホテルは駅の近くで便利は良いが、部屋も設備も従業員もパリと同じ程度のホテルでもう慣れた。ボルドー市には路面電車が市内を走っているので、移動にタクシーを使わずに便利である。
世界に名高いワインの街であるボルドーは、大西洋からガロンヌ川を100キロ程上流の河畔にある。高い建物は無く落ち着いた街でワインのシャトーが数百軒あるそうだ。
美味しいワインが飲みたくて来た訳でもないが、大いに期待はして来た。当然ながらその前に演奏公演が控えている。
市街地から車で20分程の場所にある会場は、どちらかと云えば若者向けの公開スタジオステージで、日本の古典芸能には向かないかなという感じであったが、それも面白い雰囲気であった。
1508221.jpgボルドー公演開演前
ここは日本大使館の紹介の公演で、書記官が同行してくれたのだが、実際には当地の総領事が動いての開催であった。がその総領事が日本の古典芸能に興味がないのか、知識と理解がないようであったのが少し問題かなと思われる。
1508222.jpgボルドー公演
終演後のカーテンコールの後に、質問が多くあるのはいずこも同じであった。
翌日は待望のワインのシャトー廻りのバスツアーに参加した。
1508223.jpgシャトーを訪ねるツアーバスの中にて
2軒のシャトーに案内されて、長々と講釈を聞かされるが英語での説明であり、私には分からないので退屈した。白ワインのシャトーでは、貴腐ワインが美味しかったが、赤ワインのシャトーでは安ワインで旨くなかった。余り期待したほどではないツアーで、やはり5大シャトーに行きたかったなと皆の結論であった。
その夜は今回の総仕上げの最後の晩餐で、下見でも来たフランス料理店「ガブリエル」へ。ここの料理とワインは、満足して舌鼓を打った。これでボルドーへ来た甲斐があったと満足して一同疲れも取れた。
然しまだこれでは終わらないのがフランスの良いとこで、ボルドーからの帰路、ドゴール空港までは新幹線のTGVで行ったのが、これがまた大変な思いをした。
まったく日本では考えられない事で、列車の入ってくるホームが決まっていないのである。
全員がスーツケースと手荷物を抱えてホームの地下道で待機をしている。
列車は断りもなく遅れるし、進入して来る直前にホームが判ると、大急ぎで上がるが、今度は乗る車両がなかなか分からない。大きな荷物を持って右往左往して捜す。駅員も見つからないし、焦った事あせった事。若い連中でさえ汗だくで、このいい加減さに私は腹を立つし、血圧も上がったものだ。
まあ大方何処の国でもこの程度が当たり前で普通である、日本が几帳面で親切で優しく礼儀正しく清潔で神経質過ぎるのかな。
そして便利すぎるのかな…。そして食べる物も美味しすぎるのかも。ある程度いい加減な方が生き易いのかも。快適になり過ぎるとそれが当たり前になり、少しの不便さやいい加減さに対応出来なくなる体質になって、身体と心が軟弱な感覚構造になるのかも…と思った。でも大らかさも程度があるけどなあ…。
それにつけてもやはり日本は素晴らしい国だ。
何かと云うと世の不平不満ばかり口にする日本人がいるが、総合点を付ければ日本は世界の一番良い国で、そして素晴らしく優秀な国民である事間違いないと、私は大いに誇りを持つ。そう感じながら常に日本へ戻って来る。でもまた海外公演には行きたくなる。これも間違いない。
「邦楽の友」より
2015年5月号

フランス新内公演紀行

第2回 パリの空の下 新内が流れる
新内協会理事長・新内節人間国宝 鶴賀若狭掾
6月の下見とは違いかなりの寒さを予想して重装備で乗り込む。
今度は中型バスの出迎えで何の心配もなく市内に到着する。
新内3名、日舞1名、八王子車人形2名、照明1名。随行1名の8名は、そのままパリ日本文化会館へ直行した。
随行のステファニー(伊勢笑)は下見にも同行したが、私の海外公演には度々一緒に行って、通訳やら舞台スタッフの一員や、私の付き人等と、何かと世話になり本当に助けてもらっている有り難いお弟子さんである。そして何時も自費参加である。
会場へ入ってから直ぐに照明の仕込みや舞台機構のチェックと、休む間も無しの強行軍。
日本文化会館はエッフェル塔の近くでセーヌ川沿いにある。
1507211.jpgエッフェル塔前にて
ホテルも会場の近くで何かと便利である。パリのホテルは狭くて高くて、三星でも日本のビジネスホテルよりお粗末である。トイレはウオシュレットなど何処にもない、エレベーターは狭くて不便、フロントの教育も悪い。
カフェテリアは何処の店もまずいし高いし、良いとこ無しで、余り多くを期待してはいけない町である。パリはそれが全てではないけれども、観光地にしてはどうも頂けない点が多いと実感した。パリ在住の日本人も食べ物は正直美味しくないと言っているから、まああまり期待はしない方が宜しい。高級レストランは多分美味しいとは思うが。
横道に逸れたが、公演は翌日の午後八時開演。朝から仕込みとリハーサルで大忙し。スタッフは一人で、大勢連れて行く余裕がないので全員が何でもこなす。歳なので私には結構ハード。
さあ本番を迎える。新内浄瑠璃が主体の今回の公演である。
パリっ子に受け入れられるか、理解されるか、そしてお客が何人来るのか…と案じつつ幕が開いた。
竹内館長の丁寧で行き届いた解説で始まる。続いて私の「蘭蝶」である。
場内は暗いが上まで見えた。殆ど満席である。アア良かったと演奏より先ず安堵した。
2曲目は新内舞踊「広重八景」。鶴賀伊勢吉の語り、新内勝志壽の三味線である。
1507212.jpg日本文化会館 新内「広重八景」
花柳貴比さんは衣裳も鬘も化粧も全て自分でやる。流石に衣裳の着付けを女性2人が手伝っていた。
3曲目は私の新内「一の谷嫩軍記」組討ちの段で、上の段と下の段に分けた。上が素浄瑠璃、下は車人形の古柳さんと柳時さんに熊谷次郎と玉織姫を演じて貰った。
全員が疲れも見せず元気に、語り、弾き、踊り、演じ、流石にプロは凄い、逞しいと感心。 最終演目が終わった。さあ反応はどうだ。大きな拍手がきて、カーテンはないがカーテンコールの拍手はきたのであった。海外公演は大抵の会場でカーテンコールはある。然し今回は特に感動した。全員がそう感じたと思う。
パリの空の下、セーヌ川の畔に新内は流れた。嬉しかった。
2日公演であったが2度とも同様に観客に受けたのであった。
ロビーでの打ち上げレセプションでもいい感触であった。
2回とも観客の八割はフランス人であった。どのような反応であったのかと案じていたが、好反響であったと帰国後に聞く。ただ惜しむらくはフランス語のテロップを出さなかったのが残念であった。観客にも指摘されたようで反省材料である。
2日目に楽屋へ差し入れてくれた竹内館長のおにぎりとハンバーグが最高であった。栄養失調気味の私はこれで生き返った。
丁度この時期、グラン・パレ国立ギャラリーで葛飾北斎展が開催中で、会場は長蛇の列で大人気。パリは日本ブームである。
2日目の後、パリの日本大使館で打ち上げ会を開いて頂いた。8名全員と日本から応援に駆けつけて下さった10数名の方々も含めて、美味しい日本料理とワインをご馳走になり、気が付いたら午前1時であった。大使閣下のご厚意に感謝感激であった。
翌日は「ルレーシャトー」の国際大会が日本大使館であった。ルレーシャトーとは、ミッシェランと同じようなホテルやレストランの格付けする組織で、かなりグレードが高い審査があり、まだ日本にはこれに加盟されている店は少なく、非常に権威のある機関である。
私の友人で松本の扉温泉にある名旅館「明神館」のオーナーである斉藤氏のご子息が、日本と韓国のその支部長に就任している。
丁度私達がパリに居合わせたので、その国際大会の席に、お祝いとして新内祝舞踊「三番叟」を演奏した。50数カ国から集まった外国人の前で披露したが、日本の古典芸能を鑑賞して頂く良い機会を得た。
1507212.jpg在仏大使公邸 新内「子宝三番叟」
物珍しさもあってか大変に喜ばれたと、やはり後日に大使からメールで知らされた。
そしてその夜、日本文化会館館長さんを交えて、日本人のオーナーシェフのモンパルナスにあるフランス料理店へ行く。京都料理風のフランス料理で、大変に美味しく且つリーズナブルで、パリっ子にも人気度も高い店であった。日本人の繊細な感性と素晴らしい味覚の料理で、フランス人も魅了するのである。
そして翌朝に次の公演地のボルドーへ新幹線TGVで向った。
「邦楽の友」より
2015年5月号

フランス新内公演紀行

第1回 パリの空の下 新内が流れる
新内協会理事長・新内節人間国宝 鶴賀若狭掾
10年振りにパリヘ行ったのが昨年の6月であった。11月に催す公演の下見と打ち合わせを兼ねて、私と花柳さんと弟子のステファニーの3人で出掛けたのである。
1506231.jpgシャンゼリゼ通りにて
パリ市街は東京と違って新しい高層ビルが建てられないのか、以前と余り変わっていないと思う。
会場予定のパリ日本文化会館へ行き、舞台や舞台機構の説明やら、演目の相談をした。
1506232.jpg日本文化会館の方々と共に
公演なしの下見の気楽な旅とのんきにやって来たが、それがいやはやとんだ目に会った。
まず空港へ着いた初日から大変苦労したのである。荷物を取ってバスで市内に行こうと玄関口に出た。そこにはバスもタクシーもない。一体どうしたのだろうと聞いてみると、「今日はタクシーもバスもストライキで走ってない」との事であった。
サア困ったぞ、どういう手段で市内のホテルへ行けばいいのか。聞いてみると電車を乗り継いで行きなさいと教えられた。大きなスーツケースを持っての移動で、汗だくで地下鉄に乗り換えホテルへ向かう。エスカレーターもストップしているし、乗り換えも不案内で、参ったこと此の上無し。
漸くホテルに着いた時にはヘトヘトぐったり。下見とはいえ3名の個人的な旅行であり、付き人はおらず苦難のアクシデントから始まった。
然し同行の女性2人の力持ちには助けられた。
6月のヨーロッパは好季節である。花のパリも浮いた気分で数日間、雨にも相変わらず振られずにそれなりの滞在であった。
1506233.jpgセーヌ川の橋の上で
然しまた災難に会った。プランタンで買い物した日曜日の午後、街頭の骨董市をブラブラひやかして歩いた。天気も良く、さして購買意欲の起こらない〈のみの市〉を見て、途中カフェテリアで美味しくない食事をしてからオペラ座へ向かう大通りを歩いていた。
すると前から来たマダム「ファスナーが開いているわよ」と連れの日本舞踊家の花柳貴比さんのリュックを指差した。(勿論フランス語で)咄嗟にやられたと思いリュックを見た。
アア!
盗られた。財布がない。中身は500ユーロとカード3枚。
慌てたがモウ遅い。腹立たしいがモウ仕方なし。現金よりカードが心配である。なかなかカード会社と連絡が取れなかったので、日本大使館に電話してカード会社に無効の手続きをお願いし、まず事なきを得た。
今考えると前からきて教えてくれた美人マダムは何者だったんだろうか…怪しいな、「グルだな!」と思った。
生き馬の目を抜くパリだから気を付けましょうぜ、との教訓を胸に納めた次第であった。然し私は海外40カ国以上回っているが、掏られた事は一度もないのだが…。
この後パリからボルドーへ行き、やはり会場の下見と期待のボルドーワインを飲んで帰国した。
それから半年後の11月に公演本番に8名でパリに入った。
「邦楽の友」より
2015年5月号

新内横丁の調べから

第13話 エクアドル新内記行 海外演奏旅行4(南米編)
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

エクアドル共和国と云えばガラパゴス諸島であり、イグアナの生息地として名高い。同国最大の都市のグアヤキルへ空路入国した。この海辺の町はガラパゴスへ行く船の発着所。我々のホテルの前がイグアナ公園で、イグアナが放し飼いになっている。イグアナは爬虫類特有の恐ろしい顔つきだが、余り動かないおとなしい性格ので、背中をなでたりしてもじっとしている。同行の女性達は「可愛い!」と言って触っていたが、どこが可愛いのかな?と不思議。
日本と関係の深いと思われる実業家に郷土料理をご馳走になったが、何を食べたか覚えていないから、余り美味しくなかったのかも知れない。
当地で一回公演を行った。喧噪の中をバスで劇場へ。少し街から離れた寂しい所で小雨もパラつき観客は来るのかと案じたが、此処も満員であった。日本の芸能が珍しいのと、日系人も多い事もあって「弥次喜多」は大笑いの連続であった。
日本でも外人さんを呼んで英語やスペイン語で公演すべきと感じた。
その港町から一気に標高約2900米の首都キト市まで飛行機で上がる。機内の放送で高山病に氣を付けるようにとの注意があった。滞在中は食べ過ぎない、飲み過ぎない、激しく動き過ぎないようにと注意されて、大方の人は守っての滞在であった。
高地に慣れる為に、そこから更に高い4000米の場所までケーブルカーで登った。そこでは流石に頭がクラクラしてすぐに下った。その後は3000米は全く平気であった。その為か私のホテルのルームと、公演する舞台の袖には私の為に酸素ボンベが用意してあり有り難かったが、お陰様で一度も使用せずに済んだ。
またこの町も治安が悪く、テロも多いとの事で私が外出する時は、大使館の公用車とピストルを携帯したSPがガードしてくれて、いつも同行して警護してくれた。
在エクアドル日本全権大使の前川閣下は、大学生の頃に神楽坂6丁目の和菓子の船橋家(現在廃業)に下宿していたそうで、私は家が近くで野寺さんを良く存じ上げていると申したら大層喜んで、話が弾んだのであった。
当地の会場は旧市街地のかなり大きく立派な劇場であった。開演前から劇場前は長蛇の列であり、大入り満員の盛況。此処でもスペイン語「弥次喜多」は大受けで嬉しかった。此処の劇場では、セリフの8割はスペイン語で語った。終演後の楽屋で質問攻めに会うのは何処も同じだ。
そして最後の訪問国のコロンンビアの首都ボコタへ向かった。痲薬と美人の多い国として名高い国である。
在コロンビア全権大使の寺澤閣下は、私の親友の元上司であり、その彼が私が行く事を事前に連絡してくれたので歓待を受けて、一日休養日がありゴルフに出掛けた。車は防弾仕立てである。ゴルフ場も完全防備の態勢で物々しい。大使から「自分の在任中にまた来いよ」と誘われたが、30時間以上掛かるのでは無理だ。
音楽は世界共通であるというが、果たしてそれはどうかな。殊に新内は浄瑠璃でコトバと詞章の芸で音楽といっても少し違う。物語の内容を理解させる事が重要である。今回は3カ国とも現地語で語ったので成功した公演であった。
3ヶ国とも貧困層多く、物乞いも多いとこだが、皆陽気で人生を楽しんでいるなあと感じた。人間の幸せの価値観を考えさせられた南米公演であった。
次回から米国編。

会の発足にあたって

文化庁文化交流使の会代表 鶴賀若狭掾

文化庁事業の文化交流使に指名されて、世界各地に赴き、夫々の使命を果たして来た交流使。その卒業生達が幾度か集い、盃を重ねるうちに多岐に亘るジャンルのスペシャリストが、1年度だけの交流使で散るのは勿体ないのではとの風が吹いて来た。交流使時に経験した滞在先や仕事先、ワークショップ等の諸問題に直面して、苦労して培った体験やノウハウを後の方々に活かすべきではとの思い。またこれだけ多くの芸術家、文化人が出会い、コミュニティを形勢するにあたっては、志を一つにする有志が集まり、日本文化を世界に広め理解を深化させ、交流を促進する手助けをしようとの熱い思い、等から自発的に交流使会が発足したのです。
発足記念事業として何か形を成して旗揚げ公演としたのが本日の会であります。
他ジャンルが集まると賑やかで頼もしいが、中々船が進み難く、山積する諸事を乗り越えて船出しました。
≪この会の目指す所は何か、その為の事業は、コンセンサスの統一はあるか、支援企業の篤志家は等々≫全員が前向きに清く尊く広い心を以て会を運営し、日本文化の発展に寄与したいと願っております。
皆様のご支援を心よりお願い申し上げます。
2015年4月22日

新内の担い手の自覚

新内協会理事長 鶴賀若狭掾

今年は例年になく春の寒さが長く続きましたが、漸く桜前線が北上して日本列島を華やかに彩り初めました。
数年前までは北国へ出掛けますと、地元の人達から「昔は沢山雪が降り、軒先まで積もったものだが、近頃は温暖化なのかめっきり雪が少ない」という事を聞いたものです。然し近年はどこも大雪で苦労しているようです。自然界は常に一定ではなく周期的に変化するものです。
脈々と続く古典芸能も基本、基調をなすものは不変ですが、時の流れにより意識的に変えようとしなくとも、社会や時代の変貌は少なからず、古典に新しい息吹をもたらします。これは自然の流れであり、変化が永遠の潮流である証かも知れません。唯、慎むべきは「温故知新」の勝手な解釈であります。
絶滅危惧種にならないように、新内界が総力を挙げて美しい古典芸能音楽を守り育て、未来の遺産としなければなりません。殊に若手の双肩は重いものがあると自覚し、希望を持って多角的視野で貪欲に挑戦し続けて欲しいと願っています。
新内ご愛好の皆様にも、よろしくご指導ご支援をお願い申し上げます。

新内横丁の調べから

第12回 スペイン語語新内 海外演奏旅行 3 (南米編)
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

ブラジル国内を5か所のうち、初っ端のブラジリヤ以外は、この調子でポルトガル語を交えて公演した。
ラテン系の人は明るく陽気で感情表現が素直であるから楽しい。こちらサイドも浮き浮きと乗って演奏し甲斐がある。
リオでは山の上のキリスト像のある場所まで登った。お弟子の制止を振り切ってヘリコプターに乗り、遊覧飛行で眼下にコパカパーナの海岸を見て楽しんだ。また休みの日を利用してイグアスの滝へも出かけた。
ブラジルの5都市を大成功を納めて次の国のウルグアイへと入る。
余り日本とは馴染みの薄い国であろうと思う。南米の中では経済も政治も安定している国で、面積は熊本県程の大きさである。
首都のモンテビデオと地方の街の2か所公演であった。
ウルグアイの初めの劇場へ入ってから気が付いた。この国はポルトガル語ではないスペイン語だと。南米でポルトガル語はブラジルだけである。
また慌てて通訳さんをすぐ呼んだ。ブラジル同様にセリフの箇所を順次翻訳して貰いそして発音と発声のレッスンを受ける。本番前なので集中して勉強をしたが、ポルトガル語とスペイン語は似ているので大変に覚え易く楽である。
いざ本番となるとやはり観客に大受けしたのであった。終演後にレセプションがあり顔を出した。その途端に大拍手で迎えられて一寸驚く。当国の大統領夫人の美人お姉様が笑顔で迎えてくれてハグされたのである。「とても素晴らしかった。特にスペイン語が上手で、内容がしっかり伝わりました。大変に面白い楽しい芝居で、笑えました」というような事を言われたのであった。
近くに居た日本の商社マンらしき男性にも「スペイン語が上手ですね、スペイン語をさぞ勉強したのでしょうね」と褒められて、何と答えようかなと一瞬迷ったが「ええ、実は開演3時間前に通訳さんから教わったんです」と本当の事を打ち明けた。
「本当ですか…?」と驚いた様子であったが、案外お世辞でもないだろうと思う程喜ばれた。
その後はチリへ行き、首都サンチアゴと他一か所を廻って公演し、やはり大成功を納めて帰国する。
それから数年後の平成20年に再び南米公演の仕事がきたのであった。ペルー、エクアドル、コロンビアの3国であり、この時も車人形と一緒であった。いずれの国も貧困層が多く、治安も極めて悪い地域である。
日本から長い時間をかけてペルーに入った。国の仕事であるから必ず日本大使館へ行く。平成8年に起きたテロによる日本大使館公邸襲撃、4か月間の占拠事件は記憶に生々しく残っている。
その公邸へ招かれた。勿論きれいに建て替えられているが、公邸の入口は二重の門扉でガードされている物々しさで、まるで刑務所に入って行く感じであった。門兵は鉄砲を担いで厳しい顔つきで立っているが、大使は優しい笑顔で迎えて下さってホッとした、がレセプションの時も何となく落ち着かない感じがしたのは私だけではなかった。 明日からの公演で危険な街中は大丈夫だろうかと案じつつホテルへ入る。
市内は交通渋滞も激しいが、車道のレーンのいい加減さに驚く。市営か私営だか判らないバスの無謀運転には呆れた。これでは交通事故が頻発するであろうと思う。
アルパカのセーターが安いので沢山買い込んで、弟子にまた叱られた。
そしてエクアドルへ。

節目の年に復活

新内協会理事長  鶴賀若狭掾

今年は昭和90年であり、戦後70年の節目であります。
あの敗戦を機に日本の世の中は大きく変化を遂げました。生活は快適になり、この先何処まで際限なく欲を追及するのでしょうか。
然しどこまで文明が発達しても、文化を失っては人は生きてはいけません。文化力の持つ大いなるパワーをもっと見直すべきでしょう。
この節目の年に当たり、新内協会は暫く途絶えていました「新内鑑賞会」を復活させる事と致しました。家元のみの出演でありました前回までの会を、今回から若手演奏家も出演して、新内界発展の機運を盛り上げて参りたいと存じます。
新内を伝承継承して行く為にも、多くの演奏会を開催することが重要です。
新内を愛好下さる皆様と共に、日本伝統音楽の美しい新内を語り継いで、後世に遺したいと願っております。
今後ともご指導ご支援のほど宜しくお願いを申し上げます。

ご挨拶

鶴賀若狭掾 重要無形文化財保持者(人間国宝) 11世鶴賀流家元 新内協会理事長

日本ほど自国の芸能、とりわけ伝統音楽を大事に扱わない国は世界に例を見ません。情けない悲しい事ではありませんか。そして恥ずかしい事なのです。私は世界40か国以上出掛けて演奏をして来ましたが、いずれの国でも日本の歴史、伝統に対して尊敬と憧憬の念を持っているのです。
我が国はどうして伝統音楽を軽視するようになったのでしょうか。
それは明治維新から、政府か役人が西洋文化に傾倒し、自国の音楽を蔑視した結果です。そして学校の音楽教育を五線譜による西洋音楽にしたのです。ところが今、国も気付いたのでしょうか。学校教育に邦楽を取り入れる事の大切さと必要性を感じたのでしょう。改めて伝統文化芸術振興のための事業を、多方面で始めています。今回の伝統文化親子教室も、文化庁指導の事業であります。
この事業を始めるにあたっての難関は参加者集めです。幸い私は地元の津久戸小学校の卒業ですので、校長先生や父兄の方のご協力を得まして、どうにか小人数ですが、開催する事が可能となりました。伝統芸の三味線音楽は難しく、簡単には覚えられません。そこで音楽性を少し緩めて、語りを重視しての稽古(指導)にしました。
子供達は初めのうちは多分戸惑っていたことでしょう。然し子供の感性は鋭いし、覚えも早く脳の柔らかさには驚かされます。9回の稽古を重ねての、本日はその発表会です。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の新内の成果をお聞き頂ければ、お分かり頂けると思います。子供達も初めての邦楽、私達も初めての事業でした。このような地道な努力が、伝統の継承には重要な活動であると痛感し、認識した次第です。今後共この事業を続けたいと願っております。
皆様のご協力に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

古典の継承 現代の意欲 未来への遺産

新年明けましておめでとうございます。
師走の慌ただしい中の総選挙も与党の大勝の結果となり、年末の忘年会やクリスマスも賑やかな音楽を交えて過ごし、一年を振り返りつつ、心健やかにそして清々しく、そしてご健勝にてお正月をお迎えの事と、お慶び申し上げます。
ここに新しい年に新しい会の幕明けです。
明日を担い、次代に古典を繋ぐ若い演奏家が、各自の責任と使命を自覚して、能力を結集し、新企画を以て夢膨らませ、希望に満ちた力強い、そしてフレッシュな会の誕生です。
その名も【弓弦葉の会】 若手女性三名に依る何とも力強い命名です。
義太夫の太夫一名、三味線弾き一名、新内の太夫一名の三人、それは上方の浄瑠璃「義太夫」、そして江戸の浄瑠璃「新内」の競演であります。
三味線音楽の司と言われる西の義太夫、粋で繊細な東の新内、どちらも庶民の心を捉えてきた語り物。その魅力は何なのか、その美しさは何処にあるのかを追求し、その優れた日本の伝統芸を如何にして後世に伝承して行くかを考える会でもあろうかと思います。
戦後70年の今日、日本は多くの意味で過渡期であり、政治も経済も諸問題に直面しているようです。邦楽界も旧態依然と漫然としてはいけません。
古典伝承の態勢のなかで、真摯なる「温故知新」の精神で新機軸を打ち出す事も必要な事と思われます。
「弓弦葉の会」の誕生に多くの期待を寄せると共に、大いなる会の成功と発展と成果を見守りたいと思います。
ご来場の皆様には末長くこの会にご支援を賜りますようにお願い申し上げます。

新内横丁の調べから

第11回 ポルトガル語新内 海外演奏旅行 2 (南米編)
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

さてその方法は如何にして取り組んだか。前号をお読みでない方に、幾分説明をしよう。
ブラジル公演の初日に「新内・車人形」の上演が、観客に理解されずに散々の目に会い、大使館から苦情が出たのであった。さあこの以後どうしようと言う事になった次第。 その為に上演演目の内容も少し精査熟考し、修正したり詰めたりし、又解説文もわかり易く舞台上で説明させた。然しこれだけではどうも物足りないような気がした。そこでまた考えた末に良い方法を思いついたのである。
新内のセリフの箇所を現地語で語ることにした。当所はブラジルであるからポルトガル語。私はポルトガル語はカステラとてんぷら以外は全く知らない。然しこの演奏方法に果敢に挑戦することに決めたのである。
そこで通訳さんをすぐに呼んで、事の次第を打ち明けた。
「えッ本当ですか、少しはポルトガル語の知識があるの?」
「いや全然…」と私が答えると、呆れたのか「大丈夫?無茶ですよ」と驚いた様子であったが、私が真剣に説得し真面目に取り組む決意姿勢に納得してくれた。
時間がないから直ぐに始めましょうという事で勉強開始。始めに出てくるセリフが「アアくたびれた、くたびれた…は?」「カンサード」では「ごめん、ご免…は?」「ペルドン ペルドン」という具合に次から次へ教わり、それをカタカナで床本(見台に乗せて読む本・台本)に書き込む。
[馬の糞は?」「ココデカバアロ」(間違っているかも)
「臭い」は?「タフェジード」30数分の演目の中に50か所ほどポルトガル語に訳した。
ポルトガル語はカタカナに書いて読むとそれなりに通じるというかセリフになってしまう。英語よりもずっと話し易い言語であると感じた。
然し開演まで3時間程しかないのでそりゃもう夢中になってお稽古する。新内のリハーサルどころではなかった。
云い易いとは申せ、なにしろ初めてのポルトガル語をその国の観客の前で語るのであるから緊張し汗を掻き、カタカナと格闘して舞台を勤めた。だが大変なのは私だけではない。車人形の使い手さん達も大変であった。
人形芝居は語りや音楽に乗って動くものであるから、新内芝居の車人形は新内が筋立てして成り立つ。「弥次喜多」はセリフが多い芝居である為に、私のセリフに会わせる。
そのセリフがポルトガル語になったので、人形の使い手の方々も戸惑ってしまった。その上アドリブ的な要素が強くなり、皆さんが四苦八苦で苦労させてしまった。
然しながら初めの「カンサード、ムイントカンサード」とやった処、それだけで大爆笑が起こり、次々と出てくるセリフに爆笑の連続で、もともと「弥次喜多」は喜劇であるから、もう大変な受けようであった。さすが陽気なブラジル人で、笑い声で三味線の音が聞こえなくなるほどののりであった。
初日とは大違いでお客さんも喜んだが、我々はもっと嬉しかった。この後、リオやサンパウロなど3都市とも同じような反響で、どの会場でもカーテンコールが4、5回は続いて起きた。大使館の方々も大満足で「このやり方なら全世界を廻れますよ」と言われた。実際にこの以後その方法で世界各地を回ったのだが…。苦労もまた楽しからずや。

師走の多忙さ…

年末も昔のような慌ただしさは薄れて来たようです。国も企業の会計年度も年末ではなく、家庭経済も一年の区切りが大晦日ではなくなってきた為でしょうか。
年の瀬の長屋の慌てふためくおかしさや切なさ哀しさを展開する落語や俳句も狂歌も馴染みが薄くなり、とんと理解出来ない人が増えたようです。
でも現代では借金苦で追い回されて一年中大晦日の人も多いようです。
今年の師走はまさに師(先生)が走り回る大忙しの時期です。12月の総選挙で選挙運動に地盤を駆けて、党の政策を訴え票の獲得に躍起です。
芸に生きる私達も政治に無縁ではありません。日本の優れた文化力を以て世界平和に貢献できるよう、私達は文化人として日本人として考え行動し、且つ日本の為に真に働く人を選びたいと思います。
12月は納めの月、区切りの月でもあるので、心身の煤を払って除夜の鐘を聞きつつ、気持ち良く新年を迎えたいものです。

新内協会理事⻑ 鶴賀若狭椽

新内横丁の調べから

第10回 ブラジリア初日に窮す 海外演奏旅行 1 (南米編)
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

私の子供の頃には、滅多に外国人を見る事はなく、まして神楽坂には殆ど姿をお目にかからなかったものだ。
わが母校の津久戸小学校の5年生の時に、帰国子女が編入して来た。その子の持ってくるアメリカ製の鉛筆や、消しゴムの良い匂いに驚いたりうっとりしたものだった。
その程度しか外国の記憶がない子供時代であった。
それが今やどうだろう神楽坂の外人さんの多い事たるや。それも観光客ではなく、神楽坂在住の外国人が多い。特にフランス人が多く、街でフランス語が飛び交っている。近くにかなり以前からフランスの学校があったし、彼らには神楽坂がお気に召したのだろうか。又この伝統の地に和食屋よりもイタリヤ、フランス料理店が圧倒的に多い。
観光立国を目指している日本。今後益々外国人観光客が増える事となり、経済効果も上がり各地の活性化が期待出来る。日本が素晴らしい国だから当然であろう。
さてここで来日外国人はさておき、逆に海外へ遠征して外国を賑わしている私の仕事の話を書きたいと思う。 新内の伝承普及の為に、日本各地を回っている日頃で、国内で仕事に出掛けていない県は、鳥取・山口・高知・佐賀県くらい。いずれ全県を踏破したいと願ってはい…。
海外はと云うと約40カ国、60数都市へ出掛けた。
30年前のフランスのアビニヨン国際演劇祭から始まって来月11月のパリ公演までの間の演奏旅行である。やはりフランスとは神楽坂子として縁がある…。
だが頻繁に出かけるようになったのは、15年ほど以前からである。八王子の車人形との縁で新内芝居を演奏する仕事で、海外演奏の殆どは車人形と一緒である。全ては書ききれない、印象深い仕事をいくつか紹介してみたいと思う。
初めが南米のブラジル・ウルガイ・チリの3ヶ国。
この遠征は誠に楽しく面白く忘れられない思い出が詰まっている。当時は日本の景気が良く全員飛行機はビジネスクラスに乗り、ホテルも結構素敵で待遇が好かった。ブラジル5都市、ウルグアイ1都市、チリ2都市を廻った。その間の休日を利用しイグアスの大瀑布を見に出かけた。
ナイアガラの瀧を見た時は感動興奮したが、イグアスを見たら規模の大きさに圧倒され、ナイアガラがかすんだ。
アフリカのビクトリア大瀑布は更に壮大だと聞くので是非3大瀑布を見たいものだと願っている。
上演目は「弥次喜多」「葛の葉」の喜劇悲劇の2本立てでブラジルの首都ブラジリアが今回の初舞台であった。
意気込んで初日を迎えた。陽気な国だから弥次喜多は観客が多いに喜び笑うだろうと期待して幕が開いた。
とどうだろう、期待に大きく反して沈黙だ。静かな客席に帰る人もチラホラ出てきた。最後まで付き合ってくれた優しい人は半数であった。終演後大使館員が困った顔で楽屋へやって来た。「今日が初日でこの有様、現状だとこの先の公演が心配だ、何とかならないか」と相談に来た。「無理もない、尤もだ」と私も同感。「一晩考えさせて下さい」と云って、寂しく静かな初日の乾杯の打ち上げ会を開いた。その晩、上演の構成や演目の説明の仕方等を考えた。色色と考えている内に「アッそうだ、良いことがある」と思いついた。これが誠に功を奏し大成功。窮すれば通うずとは正にこの事で受けに受けた。以降この方法で各地上演する事となった。

新内横丁の調べから

第9回 美空ひばりさんの舞台と新内
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

天才とは、天から与えられたような、人の努力では至らないレベルの才能がある人を指すそうです。 私の知っている芸人の中では美空ひばりさんもその一人。
その美空ひばりさんの新宿のコマ劇場連続出演20周年の記念特別公演があった。11月、12月の二か月の舞台公演の話がまた東宝から来たのである。昭和58年でしたからもう昔の事だが、私にとっては生涯忘れ得ぬ想い出である。
山田五十鈴さんの時とはまた違った喜びであった。
云うに及ばずながら毎日満員で、熱狂的フアンで埋め尽くされていた。その人気は今更私が述べるまでもないが、間近に観たその光景はただただ圧倒されるばかり。
芸と人柄とそして人気と言い、ひばりさん程の歌手は今後なかなか現れないであろう、当に天才と呼ばれるに相応しい。
この記念すべき公演はひばりさんの案で、樋口一葉の「たけくらべ」のミュージカルを上演する事となった。
その脚本・演出家の沢島正継先生から電話が入った。
「水仙の詩」と題した作品の中で新内の師匠が登場し、美登利が内弟子となって修業をする。そして美登利が劇中で新内を語り、三味線を弾く。主役の美登利役は勿論ひばりさんである。そこでひばりさんに新内を指導して欲しいと頼まれた。沢島先生もやはり新内好きなのだ。
私は以前から酔ってカラオケで歌う時は「悲しい酒」「佐渡情話」だけである。今は滅多に唄わなくなってしまったが、ひばりさんの曲の中ではこの二曲が大好きである。
余談ながら先日、久し振りに神楽坂のスナックでこの二曲を唄った、というより唄わされた。なんとも名曲だと思う。酔った勢いだったが、やはりいい気分だった。
さあその天才ひばりさんに新内の指導をする。これはいい気分どころではない。嬉しくもあり、幾分楽しくはあるけれど緊張が先であった。
三味線を持参し弟子を連れてお宅に伺った。ムームーのような服を着て出迎えてくれたのを覚えている。
浄瑠璃は「らん蝶」で三味線は新内の代表的前弾き「中干」の稽古。お稽古にあたっては仏壇の前に私を座らせて何時も師匠の私を立ててくれた。彼女の姿勢は後に何度お会いしても変わる事なく、やはり超一流の人は違うなと感心したものだった。古典に対する礼儀と受け取った。
お稽古は二曲をテープに入れて渡し、暇を見つけて自分である程度覚えてもらう。現在のお稽古方法も皆さん同じある。それでも数回はお宅に稽古に伺った。
短期間ながら浄瑠璃も三味線もしっかりと修得されたと私は感心したが、いざ本番の前になり浄瑠璃を語る事は止めて三味線のみの演奏となった。正確に正当に新内を語らないとフアンに対し失礼と思ったそうである。完全主義者だったのだろうか。私としては語ってほしかったのだが。
新宿コマと梅田コマの二か月の公演であったが、その間に音楽や芸術に対する姿勢や、フアンを最優先に大切にし、決して奢らない心の大きさ豊かさに感嘆したものだ。ひばりさんから頂いた三味線ケースは今も大事にしてる。
偉大な人と出会うと自己高揚を啓発される。人生って素晴らしいものですね…。それは楽しい哉、出会いの妙…。
世界約40数カ国公演しての一期一会は次号から

2014年10月26日 会主ご挨拶

鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

錦織りなす紅葉が山を覆う行楽の好季節となりました。
皆様にはご清栄にてお過ごしのこととお慶び申し上げます。
平素はご支援お引き立て賜りまして誠に有り難う存じます。
本日はご多忙の処、ご来駕賜りまして厚く御礼を申し上げます。
新名取ご披露を兼ねました五年振りの演奏会の開催でございます。
この度は私のお弟子から四名、鶴賀伊勢一郎が一名、鶴賀伊勢吉が六名の名取を誕生させました。この二名が努力を重ね初めて名取を作り、私のお弟子と合わせて十一名が目出度く名取を許されました。
一人の名取を誕生させるには、師も弟子も丹精込めてかなりの時と根気とエネルギーを必要とし、また我慢のストレスを溜めたり発散しつつ達成します。
師弟は縁と相性が芸と人間の信頼関係を生み、芸道を共に進み今日の結果を生みます。
また私の国内や海外演奏旅行に同行し、私の三味線彈きとして活躍している鶴賀伊勢次郎が三味線弾きに留まらず太夫(語り手)として今後演奏活動をする為にも、永年親しまれた伊勢次郎から鶴賀伊勢吉と改名致しました。
合わせて改名記念のご報告の会でもあります。
今回は歌謡界の第一人者で、本年芸能五十周年を迎えた小林幸子さんをお迎えして、私と「婦系図」の湯島境内の場を競演して頂き錦上花を添えて下さいます。
また多くの先生方々のご祝詞と、諸先輩方の賛助出演を仰ぎ、そして多くの人に支えられて本日の演奏会を盛り上げて頂きます事は、誠に光栄に存じます。厚く御礼感謝申し上げます。
十一月にはフランスのパリとボルドー公演に出かけて新内を啓めて参ります。
今後ともご贔屓ご鞭撻のほど宜しくお願いを申しあげます。
終演までごゆるりとご鑑賞下さいますようお願いを申し上げます。

新内横丁の調べから

第8回 新内が東宝の舞台で輝いた
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

1と月興行で2大役者の山田五十鈴さんと歌舞伎の尾上松緑さんの新内演奏は、新内フアンならずとも大喝采の大喜びの舞台であった。新内も大いに輝いた。
山田五十鈴さんが戦後間もなくの頃、神楽坂の和菓子店の五十鈴の宣伝に頼まれて来たことがあった。駕籠に乗って神楽坂通りを道中してお店に来たのを覚えている。
そのことを山田さんに話したら、少し覚えていらした。
さてその鶴八鶴次郎の劇中の演奏に使われているのは、本来「東海道中膝栗毛」の赤坂並木の段だが、この曲だと聞かせ処が少ないので、あえて「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)・雪責め」を提案したのであった。この曲だと三味線も語りも派出で聞かせどころが多く、新内の美点が多いので演奏のし甲斐がある。演出の戌井先生も賛成して下さり実現した。
松緑さんは初日、2日目あたりは不安でしたのか、劇中の演奏中に山台後ろの金屏風の裏に私が入るよう頼まれた。
役者として失敗は許せないと思うのは当然ですが、その心配は杞憂に終わり、流石に古典の大御所と感服した。
1か月興行の中日(なかび)に松緑さんの楽屋へ挨拶に行くと「師匠、ハイこれはお礼の気持ち」と言って細長い箱を頂いた。「有り難うございます」とお礼を申して頂いて来た。親友の落語家の故柳家つば女師匠と一緒であった。
チョコレートかなと思ってつば女に上げようかなとしたが、家へ持ち帰って開けてみたら、何とこれがコルムの高級腕時計であった。あげなくて良かった。私の親父は松緑さんの大フアンであったので、殊更私は嬉しくて小躍りした。お袋も大変喜んでいた。これで少しは親孝行したかな。その尚大切に使用しているが、現在は分解掃除中である。そして山田さんから頂いた細身の角帯はまだ未使用で大事に仕舞ってあるが、この帯と時計は私の生涯の宝物である。
「鶴八鶴次郎」の芝居の打ち上げは、紀尾井町の松緑さんの邸宅で行われて多くの人が大広間に集まった。焼き肉が部屋の中で焼かれ、松緑さんが手ずから焼いて下さった。
私はかなりアルコールを頂いて大いに酩酊した。その上で山田さんや権十郎さん等とマージャンをしたが、日頃滅多にやらない下手な私は、酔いも回っていてかなり負けた。
皆さん故人になられたが楽しい懐かしい思い出である。
また松緑さんの素敵な声と、気持ち良い口跡と歯切れ良い江戸前のセリフ回しは今でも耳にしっかりと残っている。
榎本滋民先生との縁で東宝と深い繋がりが出来、新内の伝承継承と宣伝に活動する私にとっては、誠に有り難い後援者であり恩人の一人であった。美空ひばりさんの舞台のお手伝いをする事にもなったのである(次号)。
榎本先生は新内普及の為に新内芝居の台本を5本書いて下さった。私はかねがねマイナーな新内を多くの人に聴いてもらい、知ってもらう手段としては、知名度の高い芸人に出演してもらうのが効果的だと考えていた。
先生の新内芝居のオリジナル脚本と演出で、俳優や落語家の応援出演を得ての舞台が実現した。毎回大入りで新内の宣伝普及の功を奏した。楽しい仲間と面白い舞台であった。私も鬘(かつら)を初めてのせて芝居に出演したのであった。
全員低ギャラの友情出演でありながら毎回赤字公演で、その都度母親に借金をしたが、とうとう返せず仕舞いであった。スポンサーの母の店「神楽坂《喜久家》」に感謝。

音楽は振動のエネルギー

新内協会理事長 鶴賀 若狭掾

音楽は聴くものですから、耳に依って伝わり、五感に響いて聴く人の心に届く。
如何なる音曲も耳を通して体内に入るのでありますが、これは音として聴き、メロディーとして心の感性に伝わります。また音は振動の伝達でありますから、耳からだけで伝わるのではないようです。心地よい振動のエネルギーが、聴き手の五臓六腑や血液や細胞全体で音楽を受けているのでしょう。
音を楽しむと書いて音楽です。音楽の良い振動が心を癒してくれるのであります。
人間だけではありません、美しい音楽は草や花も動物も水も癒します。
声も楽器も音を出す事にては同じです。我々音楽家は純粋な美しい心と技芸の向上に精進し、修業し日々努力し、聴き手の肉体を通して心に感動を与えたいものです。
音楽家はそこに喜びと苦しみと責任を感じます。
若手演奏家は古典芸を師匠に依って、耳から伝承されて行きます。
耳を澄ませ、心を磨き邪念を捨て、透明で柔軟な受け手とならなければいけません。
義太夫の元祖「竹本義太夫」訓に
《口伝は師匠にあり、稽古は花鳥風月にあり》とあります。深い教えです。

新内横丁の調べから

第7回 山田五十鈴先生・尾上松緑先生との想い出―1
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

どなたの紹介だか全く記憶にないが、東宝の製作部から榎本滋民先生の芝居に出ないかとの電話が入った。
「榎本滋民作・演出で山田五十鈴さんの絵巻シリーズで、帝国劇場の4月公演です」との事であった。
近世の映画演劇を含めての最高な大女優・女役者は山田五十鈴さんであると当時も現在も私は確信している。
その山田さんの舞台に新内の「出語り」での出演要請であった。「出語り」とは舞台上に設けた床台の上で観客に見せ て演奏をする事である。歌舞伎ではごく当たり前だが、帝国劇場では昭和に入ってから初めての事であった。
40歳少々の自分は驚いたり興奮したり夢かとも思った。この頃の榎本先生は絶好調の油の乗り切った時代である。
新派、新国劇、歌舞伎そして東宝の舞台に作・演出家として八面六臂の活躍をされていた。江戸文学や演劇に深く精通 されて又落語の研究者でもあり、古典芸能にも造詣が深かった。先生は若い頃は後楽園の日教販に勤めていた。当時《 喜久家》へはこの会社の社員が大勢飲みにきていたので、先生も良く一緒に来たらしく、それも私との縁であったと思 われる。(榎本先生の想い出は次回に回す。)
先生は当時山田五十鈴さん主演の人気芝居で日本美女絵巻シリーズを書いていた。その三作目の上演が「逢坂屋花鳥」 と云う演目で中村富十郎さんが相手役であった。
劇中に榎本先生の作詞した歌詞に私が新内の作曲をしたのであるが、新曲でも古典のような作曲でとの要望でした。
顔合わせから連日のお稽古が続き、2大役者との舞台であるので、怖いもの知らずの若者であったが、やはりかなりの 緊張と興奮があった事を今でも覚えている。どうにか歴史的な帝劇ひと月公演を無事に勤め上げた。
この芝居の新内の演奏場面は、文楽のように全篇を義太夫節が語るのとも違い、また歌舞伎の出語りのような使われ方 でもなかった。随所々々に情景描写と主役の心理葛藤を分かり易く入れ込んだ演奏で、その上演奏場所も凝った作りで 榎本先生の最も得意とする演出方法である。
この手の芝居に出演するのは新内の宣伝効果抜群で有り難かった。この芝居以後は山田五十鈴さんとは大変懇意になり 、その後もちょくちょく楽屋見舞いに伺ったりした。
その後これが縁となったのか、東京宝塚劇場で川口松太郎作の当たり狂言「鶴八鶴次郎」の新内のお手伝いをする事と なる。演出はやはり新内好きの戌井市郎先生であった。劇中の新内の三味線弾き「鶴八」の役は山田五十鈴さん、新内 の太夫「鶴次郎」役は尾上松緑さんであった。この芝居は新内がモチーフであるから、随所に新内が出てきて、お二人 も劇中で実際に新内演奏をなさった。
その新内の指導を私が担当する事となったのである。
山田さんは三味線が達者に弾けるので少しも心配はない様子でした。松緑さんも歌舞伎の役者さんですし、藤間流の家 元ですので、邦楽は勿論お手の物で得意とするところですが、歌舞伎と新内は縁が薄く、余り馴染みがないので不安げ した。劇中で語るのは「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)・雪責め」でしたが、流石に大役者のお二人は立派 に演奏したものです。
歌舞伎大看板役者と女役者の出会いは最高の幸せでした。
この続きは次号で。

豊かな水の日本

新内協会理事長 鶴賀 若狭掾

日本列島は春の菜種梅雨から6月の梅雨時期と夏の台風、秋雨前線に冬の雪と、まるで水責めに合うが如くではあります。然しこの豊富な水が日本人の心を培ったと言えます。水害に合われた方々には誠にお気の毒に存じますが、日本の地理的条件と自然条件が国民性を育み、この自然が素晴らしい文化芸術と技術を生んだのです。
空気と水が全ての源であり、国も人も美しく優しく豊かな精神性を与えてくれます。
日本の優れた美意識が世界に冠たる芸術技術を日本人が創りました。
世界を廻ってみて日本の優秀さを実感します。新内もその中の一つで、美しい江戸の浄瑠璃であります。
皆さんと共に末水く新内を愛して行きたいものです。
本日はお暑い中のご来場誠に有り難うございます。

新内横丁の調べから

第6回 向田邦子さんとの想い出
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

その頃の二階の稽古場へは外階段から上がった。
その階段を下駄の音をさせて上がって来た人がいた。
和服を着た若い可愛い女の娘である。「志ん朝師匠の使いで来ました」何でしょうと聞くと「師匠の都合が付かないので代わりに座敷へ行ってくれないか」との言伝だった。
女性のお客で神楽坂の料亭との事。「分かった」と承諾した。その当夜だったか、数日後であったかは記憶してない。
弟子を一人連れてその座敷へ伺った。部屋には三人の中年の美女が座って飲んでいた。落語家の代わりに新内屋が来たので、三人はどう思ったのかな...歳は志ん朝さんと私は同い年だが新内と落語では...。何を話したかあまり記憶にないが、新内の話と新内界の実情などを色々としたと思う。
新内伝承の危機を訴え、私が宣伝普及活動や、新内に対する取り組みが向田さんの心を揺るがしたのか、面白いと感じたのか、それ以後種々と協力して下さった。昭和50年頃であったので先生も未だそれ程売れっ子作家ではなかったのか、雑誌などにエッセーなどを書いていた。
明年、早速に月刊誌アンアン掲載の「男性鑑賞法」なる欄の取材を受けた。現在でもエッセー集「夜中の薔薇」の中にある。また私の新内演奏会に来てくれたし、パーティにも出席してくれた。在る時向田さんから速達が届いた。電話もあるのに速達とは何だろうと急いで読むと、妹さんが赤坂に開いた小料理店の開店招待状であった。今はもう大分前に閉店してしまった「ままや」であった。初日だか二日目に友を連れて伺ったが向田さんは居なかった。呼んでおいていないとは...と電話をして呼び出した。執筆中だったらしいがすぐ来てくれて夜更けまで飲んだ事もあった。
渋谷の代官山の小川軒の裏手に小山亭なる日本料理店があった。歌舞伎や文楽のイヤフォンガイドを導入した小山觀翁先生が開店した、当時は珍しい和食のディナーショーの店であった。この料亭「小山亭」に出演する芸人は超一流の名人ばかりであった。この舞台に私の親友の縁で新内を演奏する機会を得た。まだ40代の若造の私などの青二才にはおこがましく図々しいと思ったが出演させてもらった。
それも2晩続けてのディナーショーであった。それ以来いまだに小山先生とは親しくお付き合いをさせて頂く。
そのどちらかの宴に向田さんが友達と来て下さった。
当夜はその他にも今は亡き先代の水谷八重子さん、榎本滋民さん他錚々たる方々がお越しになり緊張した。
その時向田さんは黒いスーツ姿で来られた。喪服のようだなと思ったので印象が強く記憶に残った。向田さんのエッセーを読むに至ってそれがやはり喪服で在った事が分かった。そのエッセーも単行本の中に書いてあり書店に在る。茶目っけたっぷりの才人でした。
それから後の在る時電話があり、雑誌のコマーシャルに一緒に出ないかと誘われた。アパレル会社だったが喜んで承諾をした。だが然し私がその撮影の日取りに北海道へ仕事に行く日であった。カメラマンがその日しか空いてないのでNGとなった。残念無念。今に思えば北海道の稽古を変えれば良かったと悔しがる。向田さんがその後間もなく飛行機事故死に合うとは思わないし。
縁結びの古今亭志ん朝師も向田さんの両天才も今は無し。凡才は長生きしてせめて新内の為に尽くせ...か。ああ諸行無常なり。

新内横丁の調べから

第5回 私の芸を彩る出会いの妙(その1)
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

母の店「喜久家」は私と父の2人の新内芸人のスポンサーであったと前号で書いた。然し経済面だけ応援の「喜久家」ではなかった。店のお客さんの中から私の支援者、後援者、理解者がそしてフアンが現れてその全員が私の恩人。
新内を初めて聞く新内初心者が、次第に私のフアンとなり新内愛好者となって私を育てた店の常連のお客さん。或いは邦楽関係者や演劇界の方、そして作家の先生方々等を紹介してくれた客人酔人と粋人達。その人脈が繋がり延びて広がって行き、私の世界が大きく開けて今日が在る。
その喜久家の常連さん方の懐かしい出会いの縁を振り返る。神楽坂近辺には新潮社や旺文社、東販等出版屋多く、店にもそのお客さんが大勢来店。近くには中央公論の倉庫もありそこの若い社員は全員が喜久家の客だった。その中に早稲田大学の名門水泳部のOBが数人いた。山中選手や吉無田選手と同年代である。と云っても知っている人は余りいないかなァ。でもとにかく日本を代表する水泳選手達であった。彼らの一人が当時水泳部OB会会長の文化放送の友田社長を紹介してくれた。早速訪ねると快く迎えてくれて芸能関係の社員に合わせて下さった。この人との出会いがその後の私の交友関係の幅を大いに拡げてくれた。
当時は盛んであった放送劇の優秀な演出家で、10年間術祭賞を取り続けた人「鈴木久尋」さんがその人。それから40年近く今でもお付き合いをしている。
その鈴木さんに最初に紹介して頂いた方が大林先生であった。直木賞候補にも度々上がった売っ子作家で、放送作家としても戦後一世を風靡した。NHK放送劇「かくて夢あり」やTVドラマ「あの波の果てまで」は大ヒットした。
先生との出会いは新橋のスナックバーで、地下にある店のカウンターの椅子に先生は悠然と腰かけて飲んでいた。
ダンディーで男前で上品で優しい落ち着いた方だと、今でも鮮明に30数年前のその時を記憶している。
以来約30年間お付き合いをさせて頂き、受けたご恩は計り知れない。また良く遊び良く飲み良く旅行した。
先生が理事長で創設されたアジア放送文化協会の理事に私を推薦してくれた。私以外は各放送局の錚々たるメンバーで実演家は私だけ。その協会で海外や国内旅行に度々出掛けた。それの全てが招待の豪華旅行であった。韓国ではVIP扱いの一週間で色々と楽しく遊ばしてもらった。
国内は数え切れない程各地を旅し、その都度私が運転して観光して回った。ある時奥湯河原温泉の高級旅館へ2泊して豪勢に遊んだ事があった。3日目に帰る朝、先生が「太夫(私)もう1泊しよう」と誘われ、他の方々は帰り、2人で大野屋旅館へ行き昨晩の芸者を呼び賑やかに遊んだ。明朝勘定の段にお金が全然足りない。先生と居残りも出来ないので会計理事を東京から呼んだ。安心して朝からまた飲み始め、お金を持参して来た理事と一緒にその夜、派出に遊んでしまってもう1泊となる。先生は半端ではない酒豪であった。晩年までウイスキー1本を一晩で空けていた。
芝で生まれた生粋の江戸っ子であるから気風良く、繊細で豪快で粋人。先生の大きな声、怒鳴り声そして怒った処を見た事が一度もない。このような立派な人格者で素敵な紳士であった恩師の先生を今以て私は敬愛して止まない。
昔の仲間が集まる飲み会の席で、先生が突然遺書を読み始めた。それ程弱っていない身体なのにと全員が驚いた。私は涙をボロボロ流した。亡くなる10日程前であった。
先生没後、苦労をかけた愛妻を想い読んだ句が見つかった。

夏逝きし 妻にしあれば 大島の 白きを着せて棺におさめぬ (他7句)

(続く)

新内横丁の調べから

第4回 江戸伝統音楽 新内の衰退の危機
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

私は津久戸小学校の出身。祖父、父、娘・息子、孫と五代に亘って同小学校であるから、神楽坂でも珍しいかも。
中学・高校は牛込原町の成城学校の卒業。近頃は分からないが私達の時代は、津久戸小から成城中学へ進学する生徒が神楽坂には多くいた。現在でも先輩や後輩達と懐かしい顔にお目にかかり、地元はいいものだと実感する。
私の新内の道は親の代からとはいえ順調には来ていない。
6歳の6月6日は戦争の激しい最中であったし、戦後も数年は稽古する状況でもなかった。親父が稽古を再開したのが昭和24年の頃で、私が4年生時代であるから、その頃から始めたといえば言える。然し本格的には稽古を付けてくれた訳ではない。衣食に事欠く世の状況であるから、芸事には力も情熱も入らないのは無理もない。
卒業後も稽古は続けてはいたが、芸一筋の生活では中々家計が成り立たない。先行き家庭を持ち親の面倒を看て行けるだろうかと悩みつつ、母親の料理店を手伝っていた。
ある時、NHKで邦楽育成会の入学募集を知った。
親父は余り乗り気ではなかったが、母親の強い勧めで受験した。日比谷のNHK田村町の試験会場へ急いで出掛けた。
洋服で会場へ望んだが、若い受験生は殆ど着物で来ているし、師匠も一緒について来ていた。
どのような試験科目かも知らずに行ったので、何も持たずに身一つで来たのは私だけ。順番で呼ばれて入ると試験官の先生やNHKの邦楽関係者がずらっと並んでいた。
「何か演奏しなさい」当然そう来る筈だが、三味線も撥も持参してないので「すいませんが三味線と撥を貸して下さい」と言った時は、皆さんあっけにとられた様子であった。
その上「何を演奏しますか」と聞いた時はもっと驚いたようであった。
「お座敷へ呼ばれたのではないから、得意な曲をやりなさい」とあきれ顔で言われた。
「はい、では《らん蝶》をやります」と答えて弾き語り。
其の他にも何か難しい事を聞かれたが何も分からない。
こりゃあ駄目だな...と思って堂々と帰ってきた。
どうした風の吹きまわしか、面白い芸人と思ったのか、合格の通知が届いた。当時からお世話になっていた故吉川英治先生の強い推薦があっての事だと後で気がついた。
そのNHK育成会入学が私の新内人生の始まりと言っても過言ではない。新内の狭い世界に生息していた井の中の蛙が始めて他流の隆盛を観るに及んで、己の勉強不足とはいえ余りの新内界の弱小と、後継者不足を痛感するに至る。
他所を観て新内の危機を感じるとは情けない事であるが、客観的に冷静に考察するに...少しオーバーだが自分の生きる道がここで確り確立した。ターニングポイントである。
俺がやらねば誰がやる!と血気盛んに意気込んだ。
これからは20代半ばの我武者羅な若手新内芸人であった。
その奮闘振りにマスコミも応援してくれた。「革命児」やら「暴走族」などと囃された。だが私が33歳の時に親父が66歳で死なれて苦労したが、早く逝っただけ私は随分と人一倍努力する事となった。それが私にとって良かった面もあった。哀しいやら喜ばしいやら...。
また文士の先生方が力になって下さり応援して下さった。大林清先生、向田邦子先生、榎本滋民先生、宮川一郎先生ですが皆さん他界してしまった。私の新内人生の大恩人である。
そして新内の普及宣伝伝承に心血を注ぎ、国内・海外公演にと動き回った。先生方の話と海外公演の紀行は次回に。

「時分の花」と「真の花」

新内協会理事長 鶴賀 若狭掾

4年に一度のスポーツの祭典であるオリンピックも華やかな中に幕を閉じました。
オリンピックは参加する事に意義があると言われるが、近頃はメダルを取る事に意義があるように変わって来たと感じます。
選手の育成に国が金をかけてメダルの奪取に威信をかける。オリンピックもアマチュアリズムから逸脱して来た様相を呈してきたが、それでも若者アスリートの純粋崇高なスポーツ祭りであるから楽しさも華やかさもあります。
芸の世界は子供の時から修業鍛錬稽古を積んでも、熟達した完成度の高い芸は若い世代では難しいようで、そのところがスポーツと芸の相違点です。
能の世阿弥の「風姿花伝」の(年来稽古)の著述中に、「時分の花」と「真の花」とを規定している。
若さによる美声や風姿等の一時的な華やかさと、修業によって身についた真の花との区別をしています。
即ち自分の芸に対して客観性を持つ事が必要で、若手の多くはこの一時の花の成果に惑わされている。このことを知らなければならぬと戒めている。
若さの持つ艶と美、可能性の魅力はあるが、若い時分の修業の重要性を説いています。
文化庁補助を受けてのこの若手伝承者研修発表会が、新内を継承する若手演奏者の真摯なる姿勢で芸と取り組む事に依って、芸の向上と新内発展の場となり、「真の花」が咲く基盤となる事を多くの方々が期待し、私達新内協会も大いなる期待をしています。

鶴賀若狭掾便り

(鶴賀若狭掾お弾き初め会 2014年3月1日)

本日はご来場いただきましてありがとうござにいます。
あの大雪には参りましたね。わたしも何年かぶりに雪かきに精を出しました。
今年は5年ぶりに国立劇場で名取披露の演参会を餃します。新名取さんは6-7名になるかと思います。
新内節は浄瑠璃ですから、一演目か非常に長くお稽古も根気か要リますか皆よく励みました。
5月には名取式かあります。名取式は流儀の名前免状を与えられ、流派の家元と盃を交わL、300年続いてきた鶴賀流の正式な門葉となります。式は初代鶴賀若狭掾直筆の掛け軸を掛け厳粛に取り行います。
国立の演奏会では釿名取披露以外にも楽しい演目を予定しておりますのでご来場ください。
他にも演奏会か数多くございますので、どうぞ皆様足をお運びくださいね。

鶴賀若狭掾の会
於国立小劇場 10月26日(日)

新内横丁の調べから

第3回 母の「喜久家」は新内親子のスポンサー
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

能は室町時代に足利将軍家の庇護後ろ楯で成り立った。音楽も絵画も芸術は総てスポンサーがあって育てられた。
比べてずっとズッーと小さいが親父も私も同様であった。
親父の新内人生は昭和の初期から戦中に掛けてであるからそれは過酷な時代であった。芸どころでなく当時の芸人の入隊しない連中は軍事工場へ働きに行かされた。当時の新聞に掲載されている。そういう事情の事ゆえ、一家5人の生活は芸では食っていけない。また戦後も尚更の事であった。昭和21年に疎開先から戻り、復員した大工の叔父さんに焼け野原の現住所に家を建ててもらった。当時は私の家からJNR飯田橋駅のプラットフォームが見えた。
その先には三越の搭屋の越の字が見え、両国の花火も観る事が出来たと、今では信じられない近辺の景色であった。
このような東京市街の状況であるから生きるに精一杯。
そんな中、母は商才があるし働き者で、余り住民がいない頃から直ぐ飲み屋を再開する。でも商売にならないので臨時休業し、数年後に再開。親父も弟子をとり稽古を始めたが、お弟子が集まらず芸では収入が少なく生活で出来ない。
そこで母の店「喜久家」が営業して活躍するのであった。
小料理屋であるから板前はおかないで、親父が三味線を持つ手で簡単な料理をこさえて提供する次第。このスタイルは戦前も同じであった。当時は今のように飲み屋が沢山あるわけではないので結構流行っていた。
戦時中は物価統制で酒も中々手に入らなかったが、親父が組合長をしていたお陰で酒には不自由はしてなかった。
店は営業停止の状態でも、酒の好きな常連には飲ませた。
現りそな銀行の前の路地を入った所に寄席の「牛込亭」があった。その寄席に出演していた噺家連中が喜久家に良く来ていたらしい。その筆頭が古今亭志ん生師匠であった。
ご存知の通りの酒好きな師匠はお仲間の芸人を連れて来店された。来店といっても営業停止中の事とて、こっそりと飲んだり住居の方へ来ていた程の馴染みであった。
満州に慰問に出かける前に「今から満州に円生と慰問に行くが、生きて帰れるか判らないから挨拶に来た。時ちゃんも達者でね」と言って出掛けて行ったと母が言っていた。
無事に帰国した戦後も良く来て下さった。また親父の新内の会には上野の本牧亭に来て下さり、よく新内を語った。
その演奏の中に大変な貴重なテープが残っている。
新内を語っている途中で突然に「新内はこの位にして、都都逸を唄いましょう」と言って3曲唄った。オツな声で洒脱な唄い方で実に楽しいテープである。志ん生師のフアンなら垂涎の逸品で、それと色紙や手書きの名刺もあり、私の貴重なお宝である。またご子息の長男の故金原亭馬生師は同窓会を開催してくれた事もあった。
次男の故古今亭志ん朝師と私は同い年で、若い時からの付き合いでしたし、晩年は矢来町に居を構えていたので良く神楽坂でも顔を合わしていた。正統派で昔の味のあるそして面白い最後の最高の落語家であると、私はそう思っている。非常に残念で悔しく本当に惜しい人を失った。
彼の朝太の頃の色紙も大事に所蔵している。
其の他にも多くの素晴らしい方々にも喜久家でお会いした。
其の先生との出会いがあってこそ今日の私が在る。
それも母のお陰による処であると感謝をしている。
この店も結局私が継ぐ事となる。私は短期間だが知り合いの料理屋へ短期間お勤めし、調理師の免許を取得して料理屋として板前を入れた。母の死後も続けながら芸に打ち込む事が出来そして私の今日がある。我々零細芸人父子の生涯のスポンサーが、母の小料理店「喜久家」であった。

新内横丁の調べから

第2回 初代鶴賀伊勢太夫と泉鏡花
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

私の曾祖父は岐阜(美濃)の出で、若い頃に船で江戸に出て来たと寺の過去帳に書いてある。
その子(祖父)はどういう理由かは判らぬが車屋を営む。
本多横丁を入った右手に「武蔵屋」の屋号で、盛りの時分は50人程の車夫を抱え、神楽坂の花柳界の人力車運輸を一手に引き受けていたようであった。

祖父には男ばかりの6人の子がいた。中に一人くらい商才に長けた子がいたならば、私はひょっとすると今頃は、タクシー会社の社長に治まっていたかもしれない。
その6番目の末っ子がわたしの父で初代鶴賀伊勢太夫である。粋でシャイで洒脱な芸人であった。常に着物の生活で六尺褌を締めて、細面のいい男でさぞもてた事だろう。
私達子供の誰も似ていないから残念だ。ただ私は声が良く似ているので、まあいいかと納得している。
父がどういう事情、経緯で新内の道に入ったかはついぞ聞かずじまいであった。父の師匠は鶴賀千代吉という女の師匠で、寄席の牛込亭に弾き語りで出演していたと聞く。
その師匠の同門弟子の鶴賀千代之助と現住所に世帯を持って3人の子をもうける。その末っ子の私が新内を継承する事となるのだから面白い。千代の助は勿論私達の母親。
父親は昭和46年に66歳の若さで他界。昭和48年に私が二代目を継承する。その襲名公演を三越劇場で開催する前に、ちょっとした問題が起きた。
と言うのは、公演に演奏する予定の泉鏡花原作「婦系図」の事であった。公演の数日前に三越劇場から電話が入り、「原作者の泉鏡花の姪御の名月さんから《婦系図》の事でクレームがついた。大至急挨拶に行くように」と言われた。
さあ困った、大変だ。当時はまだ鏡花没後50年を経てない。にもかかわらず無許可で演奏するのであるからこれは全く私の手落ちで弁解の余地はない。事と次第によっては公演中止となってしまう。ただ私としては、この曲は戦前に作曲されて、幾度となく演奏されていたので、こういう問題は解決済みと思っていた。
この新内の曲の作曲者は神楽坂の置き屋「新千代」の大姐御の故鶴賀鶴賀斎師で、鏡花夫人の桃太郎(婦系図のヒロイン「蔦吉」のモデル)さんとも良く知る間柄と聞いていたし、たぶん許可を得ての事と勝手に思い込んでいたのが私の迂闊であった。
そんな言い訳でお詫びとお願をしようと、菓子箱を抱えて恐る恐る逗子のお宅のベルを押した。
鬼が出るか夜叉が出るかと思いきや、優しい菩薩が笑顔で迎えて下さった。
「よくいらっしゃいましたね。さあお上がりになって。別に文句を言ったのではないのよ。ちょっと聞いてみたの、三越に...。どうぞ演奏なさってください。鏡花も新内は好きだし、神楽坂っ子のあなたなら尚更どうぞ...」と言われたときは名月さんに後光が差してみえた。
帰りは極楽の電車に乗って戻った。
襲名公演もお陰さまで大成功。これも神楽坂と泉鏡花とのご縁と今でも感謝をしている。私が35歳の頃であった。
余談ながら私の父も、鏡花夫妻を良く見かけたと言っていた。鏡花が横寺に住む怖い尾崎紅葉先生を訪ねた時かもしれない。素敵な芸人であった親父が没して早や45年となる。私も親父の歳をとうに越してしまった。


新内横丁の調べから

第1回 愛する神楽坂 今は昔
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくの如し......世の無常観漂う鴨長明の「方丈記」の冒頭です。
神楽坂生まれ育ちの神楽坂四代目で、戦中の強制疎開の期間を除いて74年間住みついている私は、神楽坂の変遷を眺め暮してきた。老舗の多くが消え、かつ住人も当然新旧交代し、出入り目まぐるしく、雰囲気も一変した。
私の家は戦前も今の場所であった。厳密にいうと住まいは現東京都教育庁庁舎(戦前は赤城小学校)の隣の小さな跡地を入った所にあった。今の住まいは毋が昭和3年に開業し平成10年まで続いた小料理屋「喜久家」の場所。この横町は現在「新内横丁」と呼ばせていただいているが、戦前も賑やかな横丁で、喜久家の隣が魚やと寿司屋、前が中華料理屋で突き当たりがカフェであった。母の店も大層流行ったと聞く。今は昔のはなし。
大久保通り(都電⑩線で新宿~万世橋)から赤城神社よりは旧通寺町の神楽坂6丁目。この界隈で今なお現役は花豊、山本とうふ店、御厨碁盤店、大内理髪店、和田写真館、履物の加登家等が戦前より続く店舗である。喫茶店のコバンの勝村家は戦前からの店だが、職種が異なり以前は自慢焼き、夏は小豆アイスで、どちらも美味しく子供の頃によく買って食べた。その後「正一合」なる一杯飲み屋を開業してこれがまた大変はやった。まだ他に何軒かはあるがほとんど消えてしまった。
毘沙門界隈では、文具の相馬屋、龍公亭、夏目写真館、履物の助六などが老舗で、それ等以外でも商売を替えて存続している店舗が残る。戦後に営業開店して今なお商いが盛んなる店も、私からみるとそれ程老舗とは言えないが、神楽坂を代表する有名店が出来ているのは心強い。
私的にみて懐かしいと思い出す今はなき店は何軒かあるが、羊羹の塩瀬、毘沙門横のラーメンの明月、同前の魚金と、西田酒屋、洋食の田原屋、大江戸線A3出入り口の辺りにあった七味唐辛子店。薬の宝生堂、お茶の明治園、竹沢家具店、武蔵野映画館(現スーパーよしや)、本多横町の遠政。特に遠政の煮こごりとすじは絶品で、この店より美味しいすじは未だお目にかからず天下一品であった。絶対に!
懐かしい店があると言えどやはり花柳界あっての神楽坂。華やかな色っぽい姐さん方が、褄(つま)を摘んで歩く粋な姿が石畳から消えたら神楽坂は終わる。黒塀の中から三味線の音や太鼓の賑やかな音色が聞こえなくなったら神楽坂の燈は消える。どんなに街が活況を呈しても、どれだけ人が溢れようとも料亭から衣擦れと白い足袋の下駄の音が心地よく刻まなくなった時、神楽坂は神楽坂でなくなる。
若者や外国人が坂の小道を小躍りして闊歩しようと、どんなに商店だけが繁盛しようと、花柳界が常に神楽坂の代表である。
神楽坂はあなた方で持っている。だから応援をしたい。
僕は花街が大好きだから。神楽坂をこよなく愛していから。世の大河の流れは絶えずして、どう変わろうとも。
神楽坂人の私が新内人として、今日に至った足取り一端をいくつかの海外公演紀行文を交えて書き記そうと思う。
「神楽坂」、平成25年4・5月、67号より

拍子木の打ち手を募集

十一月の三の酉の市も終わり師走に入りまして心忙しくなって参りました。
今年は水害の多い年でしたが、これは異常気象が原因であり、自然災害ではなく人災でしょう。地球は住み難く成ってきています。
皆様にはどのような今年でしたか。年の瀬を迎えて恙ない本年を過ごしたいと願っております。
新内の演奏会には必ず柝(拍子木)を打っておりました新内梅八太夫さんが、今年の夏に亡くなりました。重要な役割で貴重な存在でしたが、その後継者がおりませんので困っております。演奏の始めと終わりに柝が入りませんと間が抜けまして、どうにも締まりません。
そこで新内協会ではどなたかこの柝を打つ人(狂言方)を募集しております。
簡単でもありませんがそう難しくもありません。少し練習すれば徐々に上手になりますし収入にもなります。また一生通じて舞台の仕事に従事参画出来ますし、一緒に舞台を創るのも遣り甲斐ある、価値ある楽しい仕事かと存じます。
希望者は協会事務所までご連絡ください。(若千名)

新内協会理事長 鶴賀 若狭椽

先達の名人上手の芸を手本

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新内協会理事長 鶴賀若狭掾
(新内節 第4回若手伝承者研修発表会 2013年9月29日)

鶴賀若狭掾便り

(9月7日 新内浴衣会のご案内から)

本日はご来場いただきましてありがとうございます。
酷暑でしたね。皆さん夏バテは大丈夫でしたか?
私はなんとか乗り切り元気に新内道に励んでいます。
今年は海外公演がなく、じっくり新作を2~3創作しました。
9月からは少々忙しく、吟詠の会の出演や毎年恒例の石川県白山市公演等々あります。
来年の10月26日には久々に国立劇場で大浚いの会を開催する予定です。
新名取も5~6名披露できるかと存じます。
ごゆるりとお楽しみください。

入梅と紫陽花と七夕
新内協会理事長 鶴賀 若狭掾

一年の中間時期である今頃は、梅雨と紫陽花の季節です。鬱陶しいとかジメジメして厭だなどといってはいけません。此の梅雨は誠に有り難い、日本を潤す慈雨です。この後に来る猛暑の夏を控えて、水田に水を溜めて稲作が可能となり、日本の主食たる米が獲れるし、生活に欠かせない貴重な水資源です。
秋の台風と冬の雪も豊かな国土を作り、日本の心を育てます。この気候風土と地理的条件とを合わせてわが国の世界に誇る文化芸能が生まれたのです。
新内もその一つで、繊細で粋で美しい音楽であります。プロもアマチュアも新内を愛する全ての人と、新内を大切に豊かに伝承継承して後世に伝えて行きたいものです。
今宵は七夕で、牽牛星と織女星が一年に一度会うといい、この星に女性が技芸の上達を祈ると叶えられるといわれ、奈良時代から貴族社会では星まつりをしたそうですから、祈ってみましょう。男性はどうでしょうか?

 

 

(2012年の海外公演) ポーランドとラトビア公演

●ポーランド・ラトビア公演記

昨年の東北大震災直後に行ったポーランド公演は、昨年に本誌にその紀行文を掲載したが、その時の公演が縁で今年の7月に招聘された。
クラクフ市から南へ約120キロ程にあるスターリ・ソンチと言う小さな古いそして静かな町がある。
この町でアーリー音楽祭が開催される。1年前に始まったこの音楽祭の企画は「音楽の対比―ヨーロッパとアジア」と題して、アジアの文化と習慣を紹介するコンサートである。昨年の第一回は中国とイランが参加し、今年は日本とインドが招かれた。この音楽祭の音楽芸術監督が、昨年クラクフで公演した我々の公演を観て招聘することを決めたのである。クラクフの知人を介して打診があったのが昨年で、私は快く引き受けた。
今回のメンバー構成は、新内3名、能2名、八王子車人形1名、日本舞踊1名、尺八1名、箏1名、通訳1名の計10名。
演目は新内の「日高川入相花王」を基礎台本とし、能と日舞の「道成寺」を加えて脚色した。清姫が安珍を追う場から日高川へ飛び込み向う岸へ渡り、そして鐘入り迄を、日舞・人形・能を新内の語りと尺八・箏のコラボレーション演奏も交え、日本伝統芸能の魅力と調和の美をモチーフとした。

1301111.pngポーランド・ソンチでの公演

伝統芸能の海外公演はその時のコンセプトによって種々な上演形態が在る。
古典を正当に純粋にそのまま演奏する事は勿論大事であり重要である。
私は日本の素晴らしい古典を演奏し聴いて頂く事は、日本を理解する上で貴重な機会と考えているが、尚その上に大切なことは演目の内容を分かり易くしてエンジョイして貰う。それは日本を理解することで私の文化交流使の使命でもある。
その為にテロップや詳しい解説の添付や解説者の舞台上での説明も必要である。
これは日本国内でも行われているが、今や日本人も外国人も古典に於いては同じレベルの知識の近年であるから当然であろう。
私はまた、より理解を深めて頂く為に、古典芸能演者による古典演奏手法によって楽しく判り易い、観て聴いて余り難しくない題材を見つけて脚本を創っている。
ヨーロッパでは得てして難解でストーリー性の乏しいそしてよりムズカシイ、また精神性を前面に出したような作品が受けると聞くが、私にはそのような能力もないし、自分の求める方向性に合わないので、日本の美を分かり易く表現したい。
且つその上に更に理解して貰う為に現地の言葉で演奏する(語る)事が多い。
今まで約30カ国歴訪演奏をしているが、半分以上の国の言語で語って来た。
演目にもよるが、なるべくコトバの部分を原語で語る。語学力のない私であるから苦労も非常に多い...けれども楽しく汗を掻いている。
然し今回のポーランド語は大変に難しい。世界一難しいと言う人もいる程なので遠慮した。ロシア語もバルト3国もやはり難しく無理でやはりお手上げで中止した。

少し余計なことを述べて遠回りしてしまったが、スターリ・ソンチでは今迄にない素朴な街の環境と舞台であったので、観客とのコミュニケーションが取り易く、日本伝統芸能の紹介と文化交流としての使命役割を果たせたと思う。
ここで知り合った人からメールが時々届き、また来て欲しいと言われる。
当地での公演は一回とセミナーの一回で三味線音楽の説明や実演をした。
滞在中に日本人に1人も見かけなかったが、日本語を勉強する15歳位の女の子がいて日本への関心は高いと感じた。

車で1時間半ほど走ってクラコフへ向かう。クラクフはポーランド王朝の時代の都で、今でも中世の雰囲気遺す素敵な古都の街並みが多くの観光者を呼ぶ。
昨年は3月で寒くてあまり街を見物しなかったが、今回は7月で1年の中でも最も好季節なので昼も夜も閑を見つけては観光して歩いた。
 昨年の当地での公演に引き続き2回目の今回は劇場も同じマンガ館であった。
今年は天皇皇后両陛下が当館をご訪問なされて10周年にあたり、その記念事業として、館の主催として開催された。
公演当日は7月11日で私の誕生日であった。公演前にレストランでシェフ達がバースデイケーキを私の所へ持ってきて祝ってくれた。海外での暖かいお心に対して胸が熱くなる。
公演はチケットソールドアウトの満員であった。演目はソンチと同様。
カーテンコールには全員の即興で数曲を短く演じた。
終演後のレセプションではクラクフ市の市長はじめ日本との関係深い方々や、山中全権大使ご夫妻そして世界的映画監督のアンジェ・ワイダさんもお越しになった。
ワイダさんは「地下水道」「灰とダイアモンド」「カティンの森」等を作り、世界中にフアンを持つ有名な社会派の監督であり、私もファンで今年お会い出来るのを楽しみにしていた。監督は大変な日本贔屓で、日本文化を高く評価しており、ご自身も京都で日本画を学んだそうで絵もお描きになる。

1301112.pngポーランド公演 映画監督アンジェイ・ワイダ氏と

残念ながらお互いに言葉が通じず、通訳を介しての会話であったが、今回の公演を楽しみにしていたとの事で、出演者一同嬉しく良い思い出となった。
何歳だか忘れる程に忘れ得ぬ感動の私の誕生日であった。
明くる日は3時起床してバスでワルシャワ空港まで移動。経費節約の交通手段。
飛行機で1時間半ほどでラトビアの首都リガ市へ到着。

昨年の10月に八王子車人形と一緒に着た場所である。
その節にラトビア駐在の長内大使ご夫妻と気が合ったと言うかご懇意になって、その後も神楽坂で会食してより親交を深めた事によって今回のリガ公演が実現した。
ポーランドとは近いし、復路に寄れる道順なので是非リガでも公演をしましょうとの双方の思惑が一致しての公演であった。とは言え此の実現は長内大使のご尽力がなければ無理で、われわれの来たいとの気持ちだけでは全く実現不可能であった。
大使ご夫妻の献身的なるご努力には感謝致し、感激するばかりであります。
13日の本番当日は、移動疲れの中でリハーサルと夜の本番。若いと張り切る私にも些か疲労が隠せない。合間をみては横になり休み休みで臨戦態勢...を整える。
演目はポーランドと殆ど同じであった。
(因みに昨年は車人形の演奏で、演目は「八百屋お七」と「佐倉宗吾郎・甚兵衛の渡し」であった)大きな会場も満員であった。皆さん静かに鑑賞して頂き有り難い。
ポーランドもラトビアも日本への関心は高く、特に日本文化には憧れと尊敬心を抱いているし日本に好意を持っていると感じた。
当夜も盛大なる拍手の中にカーテンコールとなり幕となった。
長内大使ご夫妻も大変お慶び頂き、我々も安堵と喜びに浸った。

1301113.pngラトビア公演舞台で

さあ明日からは希望者のみで滞在を延長してラトビアのヴァカンスである。

●バルト3国

バルト海に面した3カ国は北からエストニア・ラトビア・リトアニアと並ぶ。
3カ国ともほぼ北海道程の同面積の小さな国で、高い山がなく最高地で約300米で、殆ど平坦地である。河川が多く湖沼が何千と有る。
3カ国とも小国である為に苦難の歴史を余儀なくされてきたが、1991年にソ連邦から独立し、其々がNATO・EUにも加盟している。3カ国とも国土風土は似通ってはいるが、民族・言語・文化・歴史を異にしている。
昨年の秋には3カ国を八王子車人形と共にバス移動で巡回公演をした。
エストニアは大関の把瑠都関の出身国であり、リトアニアは第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害を受けたユダヤ人難民に同情した杉原千畝がビザを発給して6000余人の避難民を救った美談が今に残る。
ラトビアはその中でも一番素敵な国で、特に首都のリガはお洒落な街である。
世界遺産の旧市街は美味しいレストランも多く、ファッショナブルな街として若者を惹き付ける。日本では未だ観光ガイドブックにそれほど紹介されてないので観光客が殆どいない。余り知られたくない気もする。
1301114.pngラトビア子供服店でファッショナブル!!
住み着きたくなる魅力溢れる国に5日間滞在して、歴史と文化に触れて満喫した。
それは長内大使ご夫妻の心温まる厚情によるもので、一般の旅行者には分からない知らない素敵な場所へ案内をして頂いた。何とも幸せな体験の休暇であった。
1301115.pngラトビア大使令夫人とバルト海の夕陽
私は世界約30数カ国を歴訪し公演をして来たが、殆どの国が日本を日本人を好意的に感じている。そして日本の歴史、文化、伝統に深い憧憬と尊敬の念を抱いているように思える。また日本の伝統文化に造詣の深い人が多い。
1301116.pngラトビア大使公邸にて ラトビア民族音楽家と
日本文化を研究し理解し、多くの学生は日本を知りたいと学び、日本へ行きたいと望んでいる。それに反し昨今の日本の若者は日本の伝統の美を知らない。
日本の優れた伝統を知らない。だから誇りと自信を持てない。
世界中で日本人程優れた国民はいないと私は自負するが、日本人程自国の伝統を大事にしない国は外にないと嘆く。
日本人が海外へ行って伝統芸能の事を尋ねられて困った人が多いと聞く。
情けない話だがそれでは国際人とは言えないだろう。
現代の混沌とした不安定な世の中であるからこそ、精神の安定と心の豊かさが求められる。そこに文化芸術の存在の価値観が見直されると思う。
我々伝統芸能者の出番であると期待し、国の応援も期待している。
鶴賀 若狭掾

ご挨拶 鶴賀流11代目家元 新内節人間国宝 鶴賀若狭掾

目まぐるしい世相を余所に今年も7月はポーランドとラトビアへ11月はシンガポールとの3ヶ国に出かけました。

二度とも国の要請ではなく現地からのオファーでしたから、出発までの準備が今までになく骨が折れました。特にポーランドとは英語での交渉でしたので苦労しましたが、公演は国々で楽しく有意義な出会いが多く、文化交流の役目を果たして来ました。

この公演での主演目である「道成寺」を今回は凱旋公演致します。新内の「日高川入相花王」をベースにして、能の鐘入りを加え、車人形と日舞との四者のコラボレーションにて舞台を構成しました。それと古典の名曲「明烏夢泡雪」の素浄瑠璃です。上の段を私が語り、下の段を鶴賀伊勢次郎改め鶴賀伊勢吉が語ります。鶴賀伊勢吉への改名記念演奏ですが、正式な演奏会は改めて開催する予定です。その節には、宜しくお引き立てのほどお願い申し上げます。

政治の変革が始まりましたが、来年はどのようは世直しが起こるのでしょうか。国難はまだまだ続きそうですが、先ずは健康第一です。来年もご家族お揃いで良い一年でありますようにご祈念申し上げます。本日は年末のご多忙の処、ご来場賜り有り難うございました。

(新内の会 平成24年12月22日)

新内合同研修演奏会 ご挨拶

ご挨拶
本年も早や残すところ1ヶ月となりました。
今年も国の内外で多くの事件や事故が多発しました。
悲惨、残酷で暗い出来事の中で一つの明るいニュースは、京都大学の山中仲弥教授のiPS細胞の開発でしょう。
生命科学の常識を覆し、あらゆる細胞や臓器となるとされるiPS細胞は、難病に苦しむ方々の朗報であり、医療革命をもたらすといわれます。
神の領域に入ったような人間の英知かも知れません。
山中教授は50歳の若さでノーベル賞の受賞、そして文化勲章も受章したのです。
理由も判然としない不透明なるお上からの受賞もある中で、誠に健やかで爽やかなる受賞であると感じる人が多いようで、私達にも嬉しい快挙です。
出来る事なら声帯もiPS細胞で若返りたいが、芸も若くなってしまっては・・・。
日本の歴史も文化も芸術も技術もそして国民性も、世界に訪れるものであります。
我らが新内もそのーつでありますから、自信と誇りと責任を持って継承伝承して、稽古に励んで邁進したいと存じます。
残り少ない本年もどうぞご健勝にてお過ごし頂き住い新年をお迎え下さい。
新内協会理事長 鶴賀 若狭禄

大関「稀勢の里」とお座敷で

大関「稀勢の里」とお座敷でほろ酔い気分。

日本人力士、頑張って!!!

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新内の始祖、「初代 鶴賀若狭掾」の記念碑

新内節の祖である初代鶴賀若狭掾は1716年に現在の福井県敦賀市で生まれた。
若い頃に江戸へ下り芝の高輪に住む。

宮古路豊後掾の門人であった富士松薩摩の門下となり富士松敦賀と名乗っていた。その後師と決別し朝日敦賀太夫と名乗りっていたが、朝日の苗字は公より禁止された為に出生の地の名を取って、1751年に鶴賀若狭掾と改名し鶴賀節の祖となる。
「明烏夢泡雪」「若木仇名草(らん蝶)」「伊太八」等を多数作曲し、シンガーソングライターとして活躍し新内を世に知らしめる。1786年没。

今年の10月22日に初代鶴賀若狭掾の顕彰碑が、福井県敦賀市内の由緒ある気比神社大鳥居の前に設置され、その除幕式が行われた。顕彰碑は高さ120センチ、幅150センチ、厚さ30センチで御影石を自然石風に仕上げて台座の石の上に据えられた。表には大方右のような文と、裏には私の名前と設置に尽力した方の名前が刻まれる。長く市の誇りとして顕彰される事となった。

当日は敦賀市長を始め関係者と市民が集まり、碑の前で私と鶴賀伊勢次郎で記念演奏を披露した。

新内の祖を祀る千歳烏山の「幸龍寺」に於いて〝若狭祭り″を催しているが、顕彰の石碑の建立は初であり、新内の伝承継承者が減少する現在、誠に有り難く深く感謝を申し上げる次第。初代鶴賀若狭掾も、亡くなられた諸先達の方々もさぞお喜びの事と存じ感激した。

鶴賀若狭掾 「邦楽の友」より

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(左) 顕彰碑前で河瀬敦賀市長と

(左下) 11代鶴賀若狭掾が除幕式で挨拶

(下) 顕彰碑裏面

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ご挨拶 新内協会理事長 鶴賀若狭橡

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鶴賀若狭掾便り・・・2012年9月2日新内浴衣会演奏会挨拶

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◆鶴賀若狭掾一門浴衣発売!!◆

1208031.png暑いですね。

ポーランド・ラトビア公演は大成功でした。
公演記は後日、報告いたします。

今年は久しぶりに一門のお揃いの浴衣を作りましたよ。
紺地の新内らしい粋な浴衣です。
この機に是非皆様にもお召しいただきたいと存じます。
9月2日(日)には浴衣会もあります。(別途報告)
その時にご一緒に着ましょう!

お申込み
tsuruga11@nifty.com
jiro-changenki@i.softbank.jp (伊勢次郎携帯)
03(3260)1804  電話・FAX共

★一反  15,000円(送料込)
(お仕立てご希望の方はご紹介します)

暑中お見舞い申し上げます

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ポーランド公演

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小林幸子(歌手)×鶴賀若狭掾

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最近TV取材が続きます。
今回は演歌界のスター小林幸子さんとの対談です。
各界で活躍する著名人が、一度会ってみたい人を指名しフリートークをするといった番組で大人が満足できる実り多いトーク番組です。こちらはBS放送です。神楽坂の私の稽古場で収録致しました。
是非ご覧ください。

BS12 TwellV [トーク・ロック」
5月27日(日)18時~18時30分
第10回 小林幸子(歌手)×鶴賀若狭掾(新内浄瑠璃人間国宝)

鶴賀若狭掾 インターネットテレビに出演

フジTV系のインターネットテレビに鶴賀若狭掾が出演しています。

「大杉 漣の連写でGO」 神楽坂編 ④

http://misanga.fujitv.co.jp/episode/479

俳優の大杉 漣さんが神楽坂を散策する中で若狭掾の稽古場を訪ねて新内についておしゃべりする風景が紹介されています。

どうぞご覧ください。

伝承芸の真摯な取り組み - 新内若手伝承考育成研修発表会ご挨拶

伝承芸の真摯な取り組み

新内協会理事長 鶴賀若狭禄

日本伝統音楽の後継者不足により継承の危機が、各ジャンルを超えて叫ばれてから久しい。芸の種類によって事情や継承危機の内容が若干異なるが、先行きの心元なさは大同小異であり、各々頭を悩ませている現状であろうと思われる。その悩ましい問題を各流派が其々の方策や試行を重ね、各団体が一丸となり或るいは個人が危機感を抱いて精力的に活動している人もいる。そう言った個々の活動と、存続の危機を訴えてきた声が届いたのか、国も伝統芸能の衰退を由々しき事と認識したようで、その為の文化予算も増額されたようであった。然しその矢先に昨年の東北大災害によって未曾有の国難が起き、当然その復興復旧財源は莫大な予算を必要とする。そうなると先ず最初に削られるのが文化予算だそうで、これもまあ致仕方ないかなとも思う。だがその厳しい予算枠の中での今回の文化庁補助事業が行われる事となった。我が新内協会にも継承伝承者を育成養成する活動を支援しようとの事業である。誠に願ってもない文化庁からの有り難い申し出であり、その事業の主旨にそって新内伝承者を育成養成する事となった。

日頃から若手伝承者は芸道に精進し、芸の練磨には余念はなく師や先達から古典曲の本道を学び、現代の感覚を取り入れた新作にも取り組み、若い世代の新内ファンの増加に精励努力している。然し尚その上に新内の先輩方の指導養成を得て益々芸の向上を目指す。古手若手が一緒になって新内の継承に尽力するようにとの文化庁からの指導なのです。その研修した若手の成果の披露発表をするのが本日の会であります。

芸の修得向上はー朝一タで取得できるものではありません。日頃の弛まざる修練で技術を磨き、そこから芸に昇華する。語り手は喉を鍛え音色を増やし豊かな魅力ある声を体得し、三味線弾きはどのような曲にも対応出来る技術の習得、この喉と手の上達によって深遠なる芸への階段を昇り始める。その上人間性を高め心を修め、終着のない道のりを歩む。技術が伴わずして物語の心だとか登場人物の心情とか情景や叙情を表現できる訳はない。先ず形の有る物、形の見えるところからの確固たる技術を身につけてから芸への出発です。とかくこの社会で勘違いの多い精神論先行の悪癖が存在しているようです。芸は己との戦いであり他人との競争でもなく、また芸を金儲けの手段にしてはなりません。芸は売名欲や出世欲に囚われると質が落ちるようです。純粋に芸と対峙したいものです。当に芸は入なりです。これは若手演奏家に限った心得ではありません。私達全ての芸人は芸を通して人生修業の道を歩み、芸道精進を目指したいと願うものです。新内協会の若手も古手も共々に新内伝承に尽力し、芸の研鑽に真摯に取り組んで参ります。

末永く新内をご愛好頂きますように心から御願い申し上げます。

鶴賀若狭橡通信

今年の冬は普寒かった時代を思い出させるような寒さですね。
昨年はバルト3国へ車人形と遠征致しました。ラトビア・エストニア・リトアニアと日本人には中々イメージできない馴染みのない国々ですが、治安安全・旧市街の美しさ、人々は文化的なものへの理解が深く、優しく、シャイで思いがけず日本人と相性の良い素晴らしい国々でした。
今年もいくつか海外公演のオファがきており、またの機会にご報告します。

鶴賀若狭掾通信

毎日お寒い日が続いておりますが年初は如何お過ごしですか

世界が激変の中どのような世の中になるのか予想もつきません

難問山積のうちに私は新内道に活動を始めました

久し振りに私がNHKTVに出演を致します

昨日十二日に収録が済み、漸く私に正月が来ました

「らん蝶」と「明烏夢泡雪」の2曲のさわりを語ります

お時間がございましたらご笑覧下さい

        ~~~~~~

◆ 一月二十七日(金)午後十時十五分~五十八分

◆ NHKTV ② Eテレ 芸能百花繚乱「新内を味わう」

  浄瑠璃・鶴賀若狭掾

      三味線・新内仲三郎 上調子・鶴賀伊勢一郎  

 

ご挨拶 鶴賀流十一代目家元 新内節=人間国宝 鶴賀若狭橡

(12月18日 リサイタル)

日本国大受難の今年も残す処あと二週間となりました。私は其の国難の中を国内外で新内演奏活動して廻りました。
三月の東北大震災直後の困難な中をポーランド、十月にはバルト3国(エストニア・ラトビア・リトアニア)へ外務省の要請で海外公演に出かけました。ポーランドでは「蘭蝶」と日本舞踊二題と、本日の演目の「蜘蛛の糸」を上演しました。
またクラクフでは会場の皆様が真心善意にて集まった、震災への義援金をお預かりし、新聞社へ届けました。
バルト3国では八王子車人形と「八百屋お七」と「佐倉義民伝の甚兵衛の渡し」を上演。二度の遠征4国とも大盛況、大歓迎を受け日本伝統芸能に深い理解と大いなる感動を受けた様子で、鳴り止まぬ拍手とスタンデイングオベーションに我々の方が感激した次第でした。芸の外交による交流は両国間の相互理解を深め、温かい関係を構築し親睦の絆となると確信しました。文化庁文化交流使である者として幾分とも日本文化の紹介と平和外交のお役に立ったようです。すでに海外30数カ国の50都市以上を訪問していますが、もともと私は海外公演も好き外国旅行も好きなのです。
ですから少しも苦痛ではなく充分に楽しんで出かけております。今後も健康に留意しつつ、新内と日本伝統芸能の紹介と、多くの人達との素敵な出会いによって友好を深め、国際親善活動をして行きたいと願っております
また本年も文化庁事業の「次代を担う子供の文化技術体験事業」も十数校を廻りました。来年廃校になる小学校や、地震の被害を被った地域の学校をも訪問しました。次代の日本を担う子供の為にも、伝統芸能の普及伝承の為にも大きな役割を果たす素晴らしい事業です。然し事業仕分で年々国の文化活動が縮小されているのは残念です。
経済不況の中でまず第一に文化予算から削減されるとは情けないことです。有形で物を満たし、無形で心を満たす。
どちらも人間には必要不可欠です。
本日は日本の伝統芸能の上演で本年の締めくくりと致します。今回はポーランドで公演した「蜘蛛の糸」を上演します。
芥川龍之介が児童用に書いた小説で、小学校の教科書にも取り上げていますので、是非とも小学生に鑑賞して頂きたいと思って創りました。そしてこの曲は出演者全員で創り上げた作品であります。
古典の「石川五右衛門」は三段からの構成ですが、今回は≪まま子責め≫と≪お瀧殺し≫の二段を語ります。
≪釜入りの段≫は次回に回します。軟派との印象が強い新内節ですが、決してそうではなく、多種の曲目が存在する浄瑠璃である事を知って頂きたいと思います。
来年以降の日本は、世界はどう変革して行くのでしょうか。暗黒の幕明けになって欲しくありません。
世の中がどうであれ健康元気でいたいものです。皆様には住い新年でありますようにご祈念申し上げます。
本目は師走のご多忙の処をご来場下さいまして誠に有り難うございました。

天災人災の年

(12月4日 新内協会演奏会)

残すところあとーカ月の本年、新内を愛好賜る皆様には多大なご支援を頂き誠に有り難う存じます。
今年は大変な一年でした。芸一筋の私達の生活も世の中の動向情勢に左右されます。
今年ほど日本が災害に見舞われそして甚大な被害を被った年は戦後初めてであります。
今更言うまでもなく東日本を襲った大地震と津波は、多くの犠牲者と計り知れない被害の残酷な傷痕を残したのでした。
その後に大雨による水害でまたまた人命、家屋財産が流されて無残な爪痕が残りました。
この自然災害と原発事故の人的災害等による放射能汚染と財政危機。借金大国日本。TPP問題等。
世界ではヨーロッパの経済危機に伴う急激な円高。中国や北朝鮮との関係、アラブ諸国のクーデター、世界の隅々に問題を抱えているようです。
日本も世界の多くの国々もいつ経済破綻してもおかしくない危ない道をたどっています。
今後どのような情勢に変化するか予測がつきません。
来年は如何なる年となるのか、そして将来は:・。終戦直後の社会に戻るかもしれません。
それでも芸を愛好し芸を志す我々は、世の中に無関心ではいられませんが、健康で心豊かにそして愛の絆を深めつ、無心に芸に対峙し芸の道を歩みたいと思います。
本日の研修会にお忙しい中のご来場誠に有り難うございました。
師走の年の瀬を前向きに明るく元気にお過ごし下さい。来年も宜しくお願い申し上げます。

新内協会理事長 鶴賀若狭橡

東日本大震災チャリティ公演に思う 

東日本大震災チャリティ公演に思う

新内協会理事長 鶴賀若狭掾

此の度の東日本大震災で亡くなられた方及び行方不明の方々に衷心より哀悼の意を表します。
また被災された多くの皆様に心よりお見舞い申し上げます。

三月十一日午後、地震・津波・原発事故が重なり未曾有の災害が起きました。国難の幕明きです。
天災は忘れた頃に来るとは云うものの、ある程度は予想されていたのですが、余りにも大き過ぎて人知の想定を遥かに超えたのです。自然界は小さな人間の及ぶところではありません。

人間は自然界に生まれ自然界の中で生かされている事を改めて認識し、自然界に畏敬の念を持ちます。
大いなる文明の発達で人間は自然界を相手にどこかで尊大になっていたかもしれません。
この自然災害が、英知を結集した検証によって今後どのように役立たされるかが重要です。

地震は地球の胎動ですから防ぎようもありませんし、地震に伴う津波の派生も必然の現象です。
然し津波の被害は過去の事故のデータにおいてある程度は未然に防げたと考えられます。

一方、原子力発電所の震災による事故は想定外では済まされません。世に出回っているその手の本を読めば解る事ですが、これは人災が事故の大方を占めています。政府や東電の事後対応についての批判はともかく、起こり得るべき事故の、発生後の被害の甚大さについて予測の認識の甘さが余りにも無責任でお粗末です。

放射能汚染による被害の影響は、原発周辺の方々は言うに及ばず日本の浮沈に係わる大災難です。
今や日本国民が物資や資源が豊富にあり、際限なく快適さと豊かさを享受出来ると錯覚していた過を悟り、無駄を省き高望みをせず謙虚に生きる自覚を持ち、経済状況の悪化や電力不足の対処に真摯に取り組みなくてはなりません。知足の心です。

新内協会では震災後直ちに義援金の百万円をNHK事業団を通じて拠出致しました。今後も更に芸人として何がお役に立てるかを真剣に取り組んで参ります。
協会員の皆さんは各々のお立場で災害復興に対してご支援をなさっていると存じますが、これから日本中にじわじわ困難苦労が迫って来る事が予想されます。

被災なされた方々には誠にお気の毒に存じます。あの惨状を伺い知る時、慰むる言葉も簡単には出ませんが、日本国民が夢と希望を持ってこの国難に立ち向かい復興に尽力し、そしてこの災禍が日本にとって福と転じさせる事がせめてもの我々の重要な使命役割と責任かと思います。歴史国家の日本国民は大いなる誇りと素晴らしい英知と努力による底力を発揮するでしょう。そして昔の日本人の美徳を取り戻したいと願います。

なおこのような時期ですので会の中止も考えましたが、チャリティ公演として開催を決定しました。
皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。本日はご来場誠に有り難うございました。

 

鶴賀 伊勢次郎日記 「アウシュビッツのガイドさん」

鶴 賀 伊勢次郎です。

初めましての方の為に自己紹介を少々。
このHPの主である鶴賀 若狭掾の弟子であり、新内演奏家です。
師匠が4回にわたってポーランド公演とこの度の大災害について述べていましたが、私もポーランドへ同行させていただきました。強烈に胸に刻み込まれた忘れられない旅になりましたねぇ。
ということで、まずはアウシュビッツ。

この残虐非道な歴史について、通り一遍の知識しか持ち合わせていなかったのだが、師匠が必ず行くと宣言したときには、関心はあるが、影響を受けやすい自分としては何かこう尻込みする感じがした。10代に広島や長崎の原爆歴史館に行ったとき、しばらく悪夢を見続けていた記憶があるのでね。

バスで現地に着くと、もう午後3時を過ぎていて見学者も少なかった。ガイドの中谷さんという方に紹介され、皆彼の後から歩き始めた。私は緊張しながらも、なぜ中谷さんという方はここで日本人ながらガイドをしているのだろう。などと余計な事を考えた。年頃は40代半くらいかな。私と同じくらいの世代で、当然戦争も知らないし、なぜ彼は日本から遠く離れた、あまり馴染みのない国で、しかもアウシュビッツで・・・。なぜここにいるんだ?

中学生くらいの子供の団体がいくつかあり、中谷さんの説明によると、いわゆるユダヤ人なのだそうだ。彼らにとってはひいおじいさんやひいおばあさんにあたる方が、この場所で殺されたのだ。ここは墓地でもあるのだ。

この強制収容所はとても一日では回りきれないくらい広大なので、中谷さんの判断で誘導される。
どういったものを私たちが見せられたかは、師匠の日記にもあるので細かくはここでは述べないが、だいたい皆さんの想像通りである。
彼のガイドは、客観的で、分かりやすく、淡々として、自分の歴史観は一切語らず事実のみの説明に終始している。
しかし、穏やかな語り口調の中に、彼の並々ならぬこの場所、この歴史に対する真摯な思い、感情を感じた。

彼は歴史的事実というものを、ドイツ、ロシア、その他のヨーロッパの国々、日本、またはユダヤ人といわれた人々、それぞれの角度から説明してれた。常に客観的に。
なぜこういった残虐非道な事が人間または一つの国家ができたのか?
彼はそうとう勉強しているんだろうな。そして、ずっーと思索し続けているんだろうな。
自分の見解を熱く語るガイドさんもたまにいるが、彼の客観的で穏やかなガイドのお陰で、冷静に最後まで歩くことができた。

大勢の人達の亡霊にさいなまれると恐れていたが、逆に今までより、歴史をもっと学び、人間について怖気づくことなく思索し思考し続けようと勇気をもらった気がした。彼にその事を伝えると、「ここに来た人間の反応は様々だが、少なくとも僕はここにくると元気をもらうんですよ。」と答えた。彼がなぜこの場所のガイドになったか、とうとう聞けなかったが、今度機会があれば聞いてみたいな。

アウシュビッツへ行こうと思っている方 ガイドは中谷さんがおすすめ!!地球の歩き方でも紹介されている有名なガイドさんらしい。大勢の人間達がここを訪れ、アウシュビッツは少し浄化されつつあるのかなあ。

アウシュビッツ 中谷氏.jpg 右端の方がガイドの中谷氏
アウシュビッツの門.jpg 余りにも有名だけどアウシュビッツの門「ARBEIT MACHT FREI」は働けば自由になれる。ナチスの騙しの演出だそうだ

 

 

鶴賀若狭掾日記  《日本の大災害とポーランド公演記》 第4回

日本の大災害とポーランド公演記

第4回

帰国して時差ボケも取れた今、真剣に如何に被災者の為に出来るか、どのような行動をすべきかを考えています。
文化庁も芸団協も救援支援の呼び掛けを精力的に行っています。私も積極的に参加する意を表明しています。
お亡くなりになられた方々に衷心より哀悼の意を表し、そして1日も早く被災地の復興を支援し、被災された多くの方々の救援と慰安に、各ジャンル芸術家とも連携を共にして行動にうつしたいと考えています。

世界中が大きな難問を抱え苦労し、物心疲弊している中、多少の経済危機に直面してはいるが比較的平和で安定している日本の国民の多くが、平和ボケの安泰で、生活に満足心充足心がなく、あれが欲しいこれも欲しい、ああして欲しいこうして欲しいと不平不満の果てしない欲望。この世相の中での日本の大災害です。
被災地は徐々に日本の底力によって復興していくでしょうが、原発事故が重なる非常の事態に、これからの日本は今までのような贅沢どころか、経済は悪化し物量は不足し、生活の根底をなす水、電気、ガスそして食料も需要が賄えなくなり。節約と耐乏生活を強いられます。

この戦時の状況の中で国民全員がどう対応していくか、どう生き抜いていくのか。人ごとではなく自分も反省し、受難後の日本の世に各々が生活を一新し、心の持ち方を考え直す国難の非常時であると思います。日本中の苦しみです。日本中の哀しみです。

知足 《足るを知る》知足の精神。即ち欲の増大により満足を覚えない、足る事を知らぬ私利私欲。快適さの飽くなき追求。
知足の心。足る事を知らぬは者は、幸せを得られない貧しく苦しく哀れな心。
足る事を覚え、感謝の精神を以て援け合い、豊かな心で希望の光を持ち続けましょう。
皆で新しい世の中に向かって心機一転、そして明るく生きて行こうではありませんか。
原発事故も含めて今後の被害状態は計り知れません。苦難の日本は過酷な生活が待っています。
日本人の英知、努力、勇気、思いやり、優しさ、勤勉さ、誠実さ、団結心、忍耐強さ等日本人の美徳を発揮し、結集して立ち向かいましょう。日本人は優秀です。
この災害を機に、日本人の美徳を取り戻しましょう。日本人は挫けません。そして1日も早く復興を成し遂げましょう。日本人は負けません。

終わりに今回のポーランド公演に際しまして、在ポーランド日本大使及び大使館員の皆様、クラクフのマンガ館々長のボグナさん、通訳のヴィオラさん、アメリカ領事ご夫妻、滞在中ずっと世話して下さった松崎さん他スタッフの皆様と公演の協賛をして下さったIDの船越社長、㈱サミーの中山社長の両氏。以上の皆様には大変お世話になりました。
厚く感謝御礼を心から申し上げます。有難うございました。

鶴賀 若狭掾

 

 

鶴賀若狭掾日記  《日本の大災害とポーランド公演記》 第3回

日本の大災害とポーランド公演記

第3回

その会場にはマンガ館々長達の発案で日本の大災害支援の為の募金箱が設置されたのでした。そして集まった義援金が日本円で約30万円以上でした。入場者の殆どが学生や若者達で、その乏しいお財布から頂いた尊い義援金です。何と温かいお志でしょうか。胸が熱くなりました。
アンコール曲を演奏後、観客に向かい日本語ですが日本国を代表しての気持ちで御礼の言葉を述べました。そして必ずやこの貴重な支援金を生かすべき被災地なり、支援機関にお届けする事をお約束をし、お預かりしてきたのです。
そして日本が復興した目途が付いたなら、またクラクフへ再び戻ってお礼の公演をする事を約束しました。大きな拍手を頂きました。必ず来よう...と心に誓いました。

マンガ館の館長さんより義援金を受け取る.jpg マンガ館の館長さんより義援金を受け取る
観客からの義援金領収書にサイン.jpg 観客からの義援金領収書にサイン
マンガ館舞台上で.jpg マンガ館舞台上で

また前日の夜、アメリカ領事館から私達一行がレセプションに招待されました。領事夫人が日本人で是非我々を招いて食事をしたいとの申し出を受け、全員で出席しました。この席は本来、我々一行8名だけが招かれる会であったのですが、日本の大災害を知ってクラクフ市の著名な方が50名以上集まりまったのです。
アメリカ領事が日本の災害の実情を話され「日本の復興支援をしましょうと」呼びかけていました。そしてご来訪者に募金をお願いしていました。お礼を込めて新内を語り日舞も披露し、尺八も演奏し、私がお礼の挨拶を述べました。
世界中が支援を申し出ていますが、大の親日国であるポーランドの国民の多くが、この度の日本の災難に優しい関心を寄せ、心配と同情を寄せている事が滞在中に感じました。

在クラクフアメリカ領事ご夫妻と.jpg 在クラクフアメリカ領事ご夫妻と
在クラクフアメリカ領事館でのチャリティパーティ.jpg 在クラクフアメリカ領事館でのチャリティパーティ
在クラクフアメリカ領事館で.jpg 在クラクフアメリカ領事館で

クラクフで忘れ得ぬ感動した出来事がありました。リハーサルを済ませて会場からホテルへタクシーで戻りました。ホテルの前で降車すべく乗車料金を支払おうとしました。すると40代位の運転手さんが「日本が大災害を受けたので、私の心ばかりの支援ですので、タクシー代は結構です。復興に頑張って下さい」と云われました。一瞬言葉を失いました。驚きました。感動しました。同乗の女性は泣いてました。
何と優しい心でしょうか。滅多に出来る行為ではありません。果たして自分はこのような時に、こういう心を使えたでしょうか。ドネイト精神を発揮出来たでしょうか。丁寧にお礼を申し上げて降車してから、運転手さんのお心使いが嬉しかったと同時に何か自分が気恥ずかしく思い、考えさせられました。そして私の人生観が少し変わりました。

心に残る美しい出来事でした。(第4回へつづく)

 

 

鶴賀若狭掾日記  《日本の大災害とポーランド公演記》 第2回

日本の大災害とポーランド公演記

第2回

クラクフはワルシャワから約300キロ南へ行ったところで日本の京都のような古都です。
ホテルへ入ってからすぐ車で強制収容所のアウシュビッツへ出かけました。
今回の訪問でどうしても見学をしたいとお願いをしていた場所です。今に残る大量虐殺の行われたアウシュビッツ強制収容所の建物。何の罪もないユダヤ人やポーランド人達が捕えられ連行されてガス室へ送られ殺された20世紀最悪の悲劇の場所。箱詰めされ何も判らず知らずに乗せられて来た汽車の鉄道の線路が悲しげに今も引かれてあった。ここが列車も人生も終着駅。そのまま殆どがガス室へ。幼い可愛い無邪気な子供たちも...。

収容者棟の中には数多くの遺品が展示してあります。馬小屋の中の貧しい木ベット、横に並んだ簡素なトイレ、拷問室、ガス室、見張りに鉄条網が、今尚地獄を感じさせる建物と雰囲気に身の毛がよだちます。人は何故非道の悪魔になれるのだろうか。この余りにも理不尽な残虐な行為は、どういう神の思惑なのでしょうか。いつの世にも繰り返される人間の恐ろしい狂気の蛮行です。皆それぞれ沈痛なる面持ちにてクラクフのホテルへ戻ったのでした。

アウシュビッツにて 1.jpg アウシュビッツにて2.jpg アウシュビッツにて

日本では大被害の中にありますが、クラクフで公演が出来る事に取り敢えずホットしました。そしてやはりチャリテイ公演となっての開催となりました。
日本の大災害は勿論大きく連日報道されています。我々の訪問も新聞やテレビ等で報道されていましたし、私もテレビや新聞社のインタビューを受けました。
その報道もあってか会場は、当日になっての入場者が殺到して大入り満員となったのです。会場は「日本美術技術博物館マンガ」で、ここは1987年に日本が援助し日本人の建築家磯崎新先生が設計して日本の美術技術を紹介する為に建てられたのです。マンガとは葛飾北斎の浮世絵の漫画絵からとった名前であります。ポーランド人がいかに日本に興味を抱いているかが分かる美術館です。

この度の公演のテーマは「日本の伝統音楽・舞踊の美」として番組編成としました。訪問した出演者一行の団長の私は新内の浄瑠璃を語り、三味線は鶴賀伊勢次郎と新内勝志壽、舞踊は副団長の藤間仁章と花柳貴比、箏は富元清英、尺八は吉岡龍見そして鳴物は藤舎朱音の8名。演目は新内の素浄瑠璃「らん蝶」。「雪」は新内舞踊で立ち方は花柳貴比、「万歳」は地歌ので立ち方は藤間仁章、唄と箏は富元清英、尺八は吉岡龍見、鳴物は藤舎朱音。そして全員参加の芥川龍之介作・鶴賀若狭掾脚色・作曲・構成の新作「蜘蛛の糸」の4曲。ショパン生誕200年記念事業ですので、しっとりと聴かせ観せるシビアな作品を選びました。
ポーランド人は大変に日本大好きな国民で、日本の文化芸術をよく学んで理解しております。ポーランド人と日本人は気質や感性が良く似ているように思われます。当地を初訪問しました私も短期間でしたがそう感じ、親しみを強く覚えました。演目の選定も良かったと思います。公演は字幕を出しませんでしたが、観客(99%ポーランド人)の皆さんが、曲の内容を正確に理解してくれたようです。終演後のパーテイでそれを実感しました。公演は観客の心を捉えて、大成功であったと確信しています。

世界的な映画監督で日本でも多くのフアンを持つワイダ氏は、この公演を大変楽しみにしていらしたのですが、ワルシャワ公演が中止を残念がっていらしたようです。クラクフへはワイダ監督の代りに奥様がお越しになり感動し、賞賛を受けました。私達が感動しました。(3回目に続く)

新聞社の取材・マンガ館にて.jpg 新聞社の取材を受ける(マンガ館にて)
クラクフ公演・蘭蝶演奏.jpg クラクフ公演 蘭蝶
クラクフ公演のレセプション・ワイダ監督の奥様(右手前).jpg 公演後レセプションでワイダ監督の奥様と(右手前)

 

 

鶴賀若狭掾日記  《日本の大災害とポーランド公演記》 第1回

日本の大災害とポーランド公演記

第1回

悲しみは突然にやって来ます。
天災は忘れた頃にやって来る。いや日本人は忘れてはいません。
日本は災害の国です。毎年毎年、地震台風水害が各地で起きてます。
然し今回の天災は余りにも大き過ぎて想定外であり、人間の予想をはるかに超えたのです。
自然の壮大な力は人間の想像や頭脳の限界を遥かに超えたのです。
過去に体験した如何なるデータも人間が考え得る憶測でしかありません。
自然の恵みも怒りも神の領域であります。
云って見れば人間にはそれらは防ぎきれません。自然界は人間の力の及ばぬ所です。
然し人間の知恵で最小限に防ぎ得る事も可能です。
今回の大震災はどうであったでしょうか。
こらからの英知を結集した検証が今後にどう生かされるかが人間の出来得る最大の限界です。

戦中の東京大空襲のあった3月10日の次の日の3月11日午後に勿論天災は突然襲って来ました。
そして我々日本は戦後最大の危機に直面したのです。日本の受難の幕明きです。

その翌々日の13日に私は昨年から企画されていた在ポーランド日本大使館主催のショパン生誕200年記念事業公演の為にポーランドのワルシャワへ飛び立ちました。その報告を簡単に記したいと思います。

複雑な思いで成田空港に向かい、前日欠航し、この日も飛ばないだろうと予測しつつ、それでも高速道路も通行可能で空港に車を運転して行きました。フィンランド航空で予定通りの出航です。
日本も心配、残す家族も案じられる。然しポーランドの2か所ともチケットはソールドアウトでもあり、芸人として日本人としてキャンセルは出来ない...そんな思いの8名が日本をあとに飛び立ちました。ヘルシンキでトランジットそしてワルシャワへ到着。余程の厳寒と思っていましたが、それ程の寒さではなく一先ずホットしたのでした。
明くる日、会場にて現地のスタッフと出演者全員で舞台の照明や音響や大道具の仕込み、そしてリハーサルにかかる段取りになった昼食後でした。
日本大使館から公使が沈痛な面持ちで入って来ました。公演中止の命令の知らせで来たのです。外務省通達で世界中の日本大使館の文化行事は当分(期限なし)中止と決定されたのです。
でも 何故・・・チャリテイでもよいのに・・・と落胆の8名。でも考えてみれば致し方ない事と全員寂しく舞台撤退となりました。

ワルシャワの劇場にて打ち合わせ ワルシャワの劇場にて打ち合わせ
公使より公演中止を告げられる 公使よりワルシャワ公演中止を告げられる
公演中止決定の後皆で演奏 公演中止決定の後、皆で演奏

本番のある筈の15日は浮いた気持にもなれずに市内を少し観光しました。
ワルシャワは第2次世界大戦でドイツ軍に徹底的に跡形もなく破壊された都市でした。
丁度この度の大津波によって壊滅状態になった太平洋沿岸の街と同じ状態です。
それが市民達の大いなる努力によって少しずつ復興し、現在ではほとんど以前の街並みに復元されています。そして今でも修復工事が続いているのです。
ワルシャワは中止を余儀なくされましたが、クラクフは催行するとの決定の知らせが入り勇躍、明朝公演する事となったクラクフへ汽車での移動。久し振りにコンパートメントの車両に乗りクラクフ市に向かいました。(第2回に続く)

 

 

ポーランド公演に行きます

ポーランド1.jpgポーランド2.jpg3月13日~3月20日までポーランド公演に出かけます。

ショパン生誕200年を記念してコンクールや音楽イベントが多く開催されており、在ポーランドの日本大使館より招待のお誘いを受け、日本の伝統音楽を紹介するまたとない機会を得ました。

 

 

公演内容は鶴賀 若狭掾が昨年創作した芥川龍之介の「蜘蛛の糸」
新内を軸として和楽器と舞踊から構成された音楽劇。
さらには、新内の代表曲の「蘭蝶」を素浄瑠璃で。
舞踊の演目として地歌の「ゆき」これは鶴賀 若狭掾が歌います。(新内風のゆきもとってもよいですよ)

ポーランドの方は非常に親日的で、日本の文化の精神性の深さに興味を持っているようです。
能の公演などはよく開催されているようですが新内は初めての試みでどのような反応を得られるのか怖いような楽しみのような・・・。
土産話を楽しみにしていてください。

渡航メンバーは
新内★ 鶴賀 若狭掾、 鶴賀 伊勢次郎、 新内 勝志壽
舞踊★ 藤間 仁章、 花柳 貴比
箏 ★ 富本 清英
尺八★ 吉岡 龍見
囃子★ 藤舎 朱音

鶴賀若狭掾日記

photo1.jpg昨日は母の日。父の日のイメージよりほのぼのとして暖かい感じがするな。誰にでも母はいる、誰にでも母はいました。私にも素晴らしい母がいました。生まれてから一度も離れたことはなく、ずっと一緒に生活してきた母でしたが、その母が79歳で急死した。前の日まで元気でいたのに朝になったら冷たくなっていました。余りにも突然でした。そのとき私は仕事で留守していたのでした・・・。芸人は親の死に目に会えない・・・ト母の最期の教えだったのでしょうか。今思い出しても悲しく辛い、一生その思いは消えないと思う。今子供は2人とも親となり孫も3人になった。彼らの長として出来る限りのことはして上げたいと思っている。それには健康でいなくてはと生活習慣に留意しなきゃあね。自分の為にも。

裕子から花が昨日君子に届き、重行一家も花を持って来たので6人で五十番へ出かけて食事をした。佳吾と怜児の賑やかで動き回ること、元気元気で楽しく疲れた。孫のうち誰が新内を継承してくれるのかな。頼むよ。お願いします。