重要無形文化財保持者(人間国宝)十一世鶴賀流家元

鶴賀若狭掾:つるが わかさのじょう

日本伝統音楽の中では粋でいなせで江戸前でその上艶っぽい魅力溢れる新内の芸人は、軟弱な優男のイメージを持たれているのではないだろうか・・・が鶴賀若狭掾は一寸違う。

若狭掾は昭和13年に牛込神楽坂に産声をあげる。10歳頃より父の初代鶴賀伊勢太夫から新内の稽古を受ける。戦後の混乱期の事とて芸人の生活は楽ではない。母親の小料理屋「喜久家」が頼りの生計である。高校卒業後も新内のみでは苦しいので働きに出たこともある。そんな中、名人と言われた8世鶴賀若狭掾の許へ行き「一の谷嫩軍記」「白藤源太」等を稽古し、鶴賀加賀八太夫師には「廓文章」「宗吾郎」などを習い、今日の若狭掾の歯切れの良さと江戸前の語り口等彼の芸の礎と幅と厚みを習得する事となった。

昭和41年、NHK邦楽技能者育成会第12期に入る。1年間であったが、邦楽の学問知識理論の勉強は以後の芸の見識を広めることに役立ったが、それ以上に新内以外のジャンルに接し邦楽界の見聞を広めた事がその後の活動の発奮材料となった。新内の小さな器から出て大海を眺めて新内の行く末を痛感するにいたり、新内伝承継承宣伝普及へ挑戦のスタートとなった。

昭和46年、父が没したため2代目鶴賀伊勢太夫襲名、鶴賀流分家家元となる。新内協会では理事、専務理事、副理事長となり協会運営に助力。平成12年には新内界の大名跡である鶴賀若狭掾を襲名し、11代目家元となる。そして新内協会理事長に就任し協会の運営、新内の発展に全力投球する。多忙な中で海外公演も活発に行っている。世界30数都市に及ぶ公演のほとんどは八王子車人形と一緒である。新内を楽しく聴いて面白く見せる事が若狭掾のコンセプトである。新内は歌舞伎や舞踊などとの共演は皆無に近く素語り演奏となるので、未知の人に理解してもらうのに限界があるだろうとの理由による。

作曲も多数ある。舞踊曲だけではなく「高瀬舟」「春琴抄」「註文帖」など名作、「鰍沢」「芝浜」「品川心中」などの落語を脚色し、宮沢賢治で新内童話、最近では高山樗牛「滝口入道」を脚色構成演出の音楽劇(新内・能・朗読・車人形とのコラボレーション)を発表し、新機軸の舞台創りで新内ファン層の拡大を着々と図っている。また新内芝居を劇作家の榎本滋民の書き下ろしで公演したり、一人芝居と競演をしたりと、常に新構想、新発案の魅力ある舞台を心掛けている。

若い頃は邦楽界の異端児といわれたこともあったが、従来の新内芸人のイメージとは質を異にし、交際範囲広く、健康的で迷いがない。向田邦子さんも彼のそんな姿に興味をもったようだ。石川県白山市の松任学習センターコンサートホールの名誉館長を務めたり、徳島県の農村舞台の復活を応援、又、高山市での毎年の行事等、日本の各地方へも定期的に出かけて新内の演奏活動も盛んに行っている。そんな頑張りと芸を認められて、平成13年に重要無形文化財(人間国宝)の認定を受けたのである。平成17年には、邦楽界史上初めて天皇皇后両陛下に新内をお聞かせする天覧リサイタルを開催し邦楽界における慶事となった。

若狭掾の前途には新内の発展にかける仕事が山積しているが、そのためには健康第一と好きな酒と食事も減らした。「芸は人なり」が座右の銘、芸道で人間性を高めたいと熱く語る。

1938 神楽坂で初代鶴賀伊勢太夫次男として誕生
1948 このころより父を師として新内の稽古開始
1958 鶴賀伊勢太夫名取り
1966 NHK邦楽技能者育成会入学
1971 初代鶴賀伊勢太夫没(66才)
1973 2代目鶴賀伊勢太夫を襲名
1978 鶴賀流分家家元。新内協会理事就任
1996 新内協会専務理事を経て副理事長就任
1999 11代目鶴賀流家元を継承
2000 11代目鶴賀若狭掾を襲名
2001 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
2002 新内協会理事長に就任
2002 新宿区名誉区民
2007 天覧リサイタル開催
2009 旭日小綬章 (文化財保護)受章
2009 平成21年度文化庁文化交流使(海外派遣型-英国)に指名
 


佳吾と若狭掾と怜児


三世伊勢と満莉子

 


十一世鶴賀若狭掾


父伊勢太夫(38歳)母時(35歳)


1976年ころ


稽古場にて