新内横丁の調べから(4)
江戸伝統音楽 新内の衰退の危機
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾
私は津久戸小学校の出身。祖父、父、娘・息子、孫と五代に亘って同小学校であるから、神楽坂でも珍しいかも。
中学・高校は牛込原町の成城学校の卒業。近頃は分からないが私達の時代は、津久戸小から成城中学へ進学する生徒が神楽坂には多くいた。現在でも先輩や後輩達と懐かしい顔にお目にかかり、地元はいいものだと実感する。
私の新内の道は親の代からとはいえ順調には来ていない。
6歳の6月6日は戦争の激しい最中であったし、戦後も数年は稽古する状況でもなかった。親父が稽古を再開したのが昭和24年の頃で、私が4年生時代であるから、その頃から始めたといえば言える。然し本格的には稽古を付けてくれた訳ではない。衣食に事欠く世の状況であるから、芸事には力も情熱も入らないのは無理もない。
卒業後も稽古は続けてはいたが、芸一筋の生活では中々家計が成り立たない。先行き家庭を持ち親の面倒を看て行けるだろうかと悩みつつ、母親の料理店を手伝っていた。
ある時、NHKで邦楽育成会の入学募集を知った。
親父は余り乗り気ではなかったが、母親の強い勧めで受験した。日比谷のNHK田村町の試験会場へ急いで出掛けた。
洋服で会場へ望んだが、若い受験生は殆ど着物で来ているし、師匠も一緒について来ていた。
どのような試験科目かも知らずに行ったので、何も持たずに身一つで来たのは私だけ。順番で呼ばれて入ると試験官の先生やNHKの邦楽関係者がずらっと並んでいた。
「何か演奏しなさい」当然そう来る筈だが、三味線も撥も持参してないので「すいませんが三味線と撥を貸して下さい」と言った時は、皆さんあっけにとられた様子であった。
その上「何を演奏しますか」と聞いた時はもっと驚いたようであった。
「お座敷へ呼ばれたのではないから、得意な曲をやりなさい」とあきれ顔で言われた。
「はい、では《らん蝶》をやります」と答えて弾き語り。
其の他にも何か難しい事を聞かれたが何も分からない。
こりゃあ駄目だな…と思って堂々と帰ってきた。
どうした風の吹きまわしか、面白い芸人と思ったのか、合格の通知が届いた。当時からお世話になっていた故吉川英治先生の強い推薦があっての事だと後で気がついた。
そのNHK育成会入学が私の新内人生の始まりと言っても過言ではない。新内の狭い世界に生息していた井の中の蛙が始めて他流の隆盛を観るに及んで、己の勉強不足とはいえ余りの新内界の弱小と、後継者不足を痛感するに至る。
他所を観て新内の危機を感じるとは情けない事であるが、客観的に冷静に考察するに…少しオーバーだが自分の生きる道がここで確り確立した。ターニングポイントである。
俺がやらねば誰がやる!と血気盛んに意気込んだ。
これからは20代半ばの我武者羅な若手新内芸人であった。
その奮闘振りにマスコミも応援してくれた。「革命児」やら「暴走族」などと囃された。だが私が33歳の時に親父が66歳で死なれて苦労したが、早く逝っただけ私は随分と人一倍努力する事となった。それが私にとって良かった面もあった。哀しいやら喜ばしいやら…。
また文士の先生方が力になって下さり応援して下さった。大林清先生、向田邦子先生、榎本滋民先生、宮川一郎先生ですが皆さん他界してしまった。私の新内人生の大恩人である。
そして新内の普及宣伝伝承に心血を注ぎ、国内・海外公演にと動き回った。
先生方の話と海外公演の紀行は次回に。