新内横丁の調べから(3)
母の「喜久家」は新内親子のスポンサー
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾
能は室町時代に足利将軍家の庇護後ろ楯で成り立った。音楽も絵画も芸術は総てスポンサーがあって育てられた。
比べてずっとズッーと小さいが親父も私も同様であった。
親父の新内人生は昭和の初期から戦中に掛けてであるからそれは過酷な時代であった。芸どころでなく当時の芸人の入隊しない連中は軍事工場へ働きに行かされた。当時の新聞に掲載されている。そういう事情の事ゆえ、一家5人の生活は芸では食っていけない。また戦後も尚更の事であった。昭和21年に疎開先から戻り、復員した大工の叔父さんに焼け野原の現住所に家を建ててもらった。当時は私の家からJNR飯田橋駅のプラットフォームが見えた。
その先には三越の搭屋の越の字が見え、両国の花火も観る事が出来たと、今では信じられない近辺の景色であった。
このような東京市街の状況であるから生きるに精一杯。
そんな中、母は商才があるし働き者で、余り住民がいない頃から直ぐ飲み屋を再開する。でも商売にならないので臨時休業し、数年後に再開。親父も弟子をとり稽古を始めたが、お弟子が集まらず芸では収入が少なく生活で出来ない。
そこで母の店「喜久家」が営業して活躍するのであった。
小料理屋であるから板前はおかないで、親父が三味線を持つ手で簡単な料理をこさえて提供する次第。このスタイルは戦前も同じであった。当時は今のように飲み屋が沢山あるわけではないので結構流行っていた。
戦時中は物価統制で酒も中々手に入らなかったが、親父が組合長をしていたお陰で酒には不自由はしてなかった。
店は営業停止の状態でも、酒の好きな常連には飲ませた。
現りそな銀行の前の路地を入った所に寄席の「牛込亭」があった。その寄席に出演していた噺家連中が喜久家に良く来ていたらしい。その筆頭が古今亭志ん生師匠であった。
ご存知の通りの酒好きな師匠はお仲間の芸人を連れて来店された。来店といっても営業停止中の事とて、こっそりと飲んだり住居の方へ来ていた程の馴染みであった。
満州に慰問に出かける前に「今から満州に円生と慰問に行くが、生きて帰れるか判らないから挨拶に来た。時ちゃんも達者でね」と言って出掛けて行ったと母が言っていた。
無事に帰国した戦後も良く来て下さった。また親父の新内の会には上野の本牧亭に来て下さり、よく新内を語った。
その演奏の中に大変な貴重なテープが残っている。
新内を語っている途中で突然に「新内はこの位にして、都都逸を唄いましょう」と言って3曲唄った。オツな声で洒脱な唄い方で実に楽しいテープである。志ん生師のフアンなら垂涎の逸品で、それと色紙や手書きの名刺もあり、私の貴重なお宝である。またご子息の長男の故金原亭馬生師は同窓会を開催してくれた事もあった。
次男の故古今亭志ん朝師と私は同い年で、若い時からの付き合いでしたし、晩年は矢来町に居を構えていたので良く神楽坂でも顔を合わしていた。正統派で昔の味のあるそして面白い最後の最高の落語家であると、私はそう思っている。非常に残念で悔しく本当に惜しい人を失った。
彼の朝太の頃の色紙も大事に所蔵している。
其の他にも多くの素晴らしい方々にも喜久家でお会いした。
其の先生との出会いがあってこそ今日の私が在る。
それも母のお陰による処であると感謝をしている。
この店も結局私が継ぐ事となる。私は短期間だが知り合いの料理屋へ短期間お勤めし、調理師の免許を取得して料理屋として板前を入れた。母の死後も続けながら芸に打ち込む事が出来そして私の今日がある。我々零細芸人父子の生涯のスポンサーが、母の小料理店「喜久家」であった。