落語と私、私と落語
私が初めて落語を聴いたのは小学校5年生の時、ラジオ放送で古今亭志ん生師の「鮑のし」であった。
はっきり記憶しているのは、あまり面白かったので母に内容を聴かせた。
すると母はお父さんにも聴かせてあげてと言われた。帰宅した父(初代鶴賀伊勢太夫)に得意になって話した。
面白いねと父も喜んだ。
私は父母がこの噺を知らないと思っていたのであるが、後で父は中学の頃から寄席に通った程の落語通と聞いた。
やはりDNAだと思う。
私はそれ以来落語のフアンになる。父母ともよく寄席に通った。
私と落語の出会いはラジオだが、母と志ん生師との出会いは戦前に遡る。
母は昭和3年に現在の私の自宅の場所で小料理屋「喜久家」を始めた。
当時は飲む場所は少なく、母は中々の美人であったので店はかなり流行ったらしい。
戦前は神楽坂には寄席が数軒あった。その芸人さん達が大勢飲みに来て、その中に志ん生師がいらした。
ご時勢が悪くなり店も閉業し、物価統制で酒も手に入らない。
だが家には日本酒が豊富に有った。無類の酒好きな師はちょくちょく自宅の方へきて飲んでいたそうだ。
母から聞いた話だが、師が「今から満州へ行って来るよ」と挨拶に来た。
お別れに来たのだわ、もう生きては帰れないのかも知れないなと思ったそうである。然し無事に帰国された。
そして戦後、上野の本牧亭で父の新内の会には度々いらした。
気が向くと高座に上がりオツな声で新内をうなった。
「明烏後正夢」を師が語った時のテープが残っている。
途中で新内を止めて都都逸を2曲唄っている大変に貴重なお宝で写真もある。
他にも師の手書きの名刺や色紙等があり、世に出したいと考えている。
ご子息の馬生師も戦後、喜久家の2階で何回か同期クラス会を開いて下さった。
また志ん朝師と私は同い年で、高座に出始めたのも同時期でもあり長いお付き合いであった。
晩年は私の近所に豪邸を構えたのでよく顔を合わせた。
生きていれば私と同時期に人間国宝になっていた筈だ。
落語は難しい。話が旨くても駄目で、面白いだけでも駄目、可笑しくなくちゃ駄目。
近頃は話術の優れた噺家が多いが、可笑しい人が少ない。
因みに私の好きな噺家は桂文楽、古今亭志ん生、春風亭柳好(三代目)。
それに志ん朝を加えて4人のみ。全員故人ですな…。
「東京かわら版」平成27年9月(通巻503号)より