新内横丁の調べから(2)
初代鶴賀伊勢太夫と泉鏡花
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾
私の曾祖父は岐阜(美濃)の出で、若い頃に船で江戸に出て来たと寺の過去帳に書いてある。
その子(祖父)はどういう理由かは判らぬが車屋を営む。
本多横丁を入った右手に「武蔵屋」の屋号で、盛りの時分は50人程の車夫を抱え、神楽坂の花柳界の人力車運輸を一手に引き受けていたようであった。
祖父には男ばかりの6人の子がいた。中に一人くらい商才に長けた子がいたならば、私はひょっとすると今頃は、タクシー会社の社長に治まっていたかもしれない。
その6番目の末っ子がわたしの父で初代鶴賀伊勢太夫である。粋でシャイで洒脱な芸人であった。常に着物の生活で六尺褌を締めて、細面のいい男でさぞもてた事だろう。
私達子供の誰も似ていないから残念だ。ただ私は声が良く似ているので、まあいいかと納得している。
父がどういう事情、経緯で新内の道に入ったかはついぞ聞かずじまいであった。父の師匠は鶴賀千代吉という女の師匠で、寄席の牛込亭に弾き語りで出演していたと聞く。
その師匠の同門弟子の鶴賀千代之助と現住所に世帯を持って3人の子をもうける。その末っ子の私が新内を継承する事となるのだから面白い。千代の助は勿論私達の母親。
父親は昭和46年に66歳の若さで他界。昭和48年に私が二代目を継承する。その襲名公演を三越劇場で開催する前に、ちょっとした問題が起きた。
と言うのは、公演に演奏する予定の泉鏡花原作「婦系図」の事であった。公演の数日前に三越劇場から電話が入り、「原作者の泉鏡花の姪御の名月さんから《婦系図》の事でクレームがついた。大至急挨拶に行くように」と言われた。
さあ困った、大変だ。当時はまだ鏡花没後50年を経てない。にもかかわらず無許可で演奏するのであるからこれは全く私の手落ちで弁解の余地はない。事と次第によっては公演中止となってしまう。ただ私としては、この曲は戦前に作曲されて、幾度となく演奏されていたので、こういう問題は解決済みと思っていた。
この新内の曲の作曲者は神楽坂の置き屋「新千代」の大姐御の故鶴賀鶴賀斎師で、鏡花夫人の桃太郎(婦系図のヒロイン「蔦吉」のモデル)さんとも良く知る間柄と聞いていたし、たぶん許可を得ての事と勝手に思い込んでいたのが私の迂闊であった。
そんな言い訳でお詫びとお願をしようと、菓子箱を抱えて恐る恐る逗子のお宅のベルを押した。
鬼が出るか夜叉が出るかと思いきや、優しい菩薩が笑顔で迎えて下さった。
「よくいらっしゃいましたね。さあお上がりになって。別に文句を言ったのではないのよ。ちょっと聞いてみたの、三越に…。どうぞ演奏なさってください。鏡花も新内は好きだし、神楽坂っ子のあなたなら尚更どうぞ…」と言われたときは名月さんに後光が差してみえた。
帰りは極楽の電車に乗って戻った。
襲名公演もお陰さまで大成功。これも神楽坂と泉鏡花とのご縁と今でも感謝をしている。私が35歳の頃であった。
余談ながら私の父も、鏡花夫妻を良く見かけたと言っていた。鏡花が横寺に住む怖い尾崎紅葉先生を訪ねた時かもしれない。素敵な芸人であった親父が没して早や45年となる。私も親父の歳をとうに越してしまった。