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新内横丁の調べから (33)

新内節「いろは」考 第4章 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 ・の 喉(声帯)はコトバを発する楽器 声は声帯より発っして口から出る事は言うまでもないが、音楽的には楽器のように節を創り曲を奏でる。高い声は頭声、低い声は胸音と共鳴箇所は異なるが出処は声帯。その楽器から日本語の文章にて物語る。 ・お 音楽ではない音楽、浄瑠璃は譜面にならない浄瑠璃 一般的に音楽と言えば五線譜に書かれた音符に忠実に演奏される。楽器も声楽にしても決められた音を奏す。浄瑠璃は五線譜では表すことができない語り物。コトバ(せりふ)が多く、特に語り手に依って節も間も異なり音符には出来ない。その辺が単に音楽と呼べない所である~

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新内横丁の調べから (32)

新内節「いろは」考 第3章 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 ・た 高い音域を駆使する新内 邦楽各流派は節も発声も異なり三味線の手も弾き方も違い、そこに特徴が生まれる。新内は高音を駆使して美しく官能的に煽情的にそして哀調切々と語り、聞く人の臓腑をえぐる様に訴え、また広い音域と音色にて優雅に豪快にと、三味線に合わせて語る浄瑠璃。 ・れ 礼儀を覚える古典の世界 稽古と練習は違う 礼儀正しいのが日本人の美徳。礼儀作法を家庭や学校で教えなくなった。上下関係のみの行為ではなく対等な間でも礼節は弁えるのが大事。芸道、武道すべからく礼節より入り稽古に向かう。レッスンではない。修業、修行の道で技と精神を~

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新内横丁の調べから (31)

新内節「いろは」考 第2章 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 ・へ 下手と思っていれば上達する 自慢高慢芸の行き止まりと云う。芸を語る上では幾分自信は持つのは当然。ある程度以上に稽古を積み修業を重ねて、人に聴いて頂ける芸になる。だがそれは芸の上達の過程である。未だ己の芸の未熟を悟り死ぬまで着かぬ芸の高みを生涯目指す。自信と高慢は全く違うのである。 ・と 常磐津は奥さん、清元は芸者、新内は花魁の色気 昔から豊後節系3流派の色気の特徴を右の如くに例えられた。誠に言い得て妙である。現在の曲調の流れから見ると幾分の変化は感じられるが、大方各々の色気の雰囲気はは当たっていると思われる。 ・ち 小さ~

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新内横丁の調べから(30)

新内節「いろは」考 第1章 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 新内は古典芸能音楽の一派であり、江戸浄瑠璃の豊後節系の一流派である。常磐津、清元、富本とは親が同じ兄弟である。 古典三味線音楽は現在はざっと10数種のジャンルが在り、それぞれが語り方、三味線のこさえ方(弾く迄の状態)が大幅にそして微妙に違う。三味線の糸の太さ、一の糸・二の糸・三の糸のバランス、棹の太さ、駒の高さとけずり方と置く位置、皮の厚さ、撥の大きさ・厚み、そして弾き方・弾く場所、掛け声、構え方等々細部に亘って相違がある。 また浄瑠璃にしても声の絞り方や喉の遣い方の発声法、節とコトバ、情感の表現法、諸々邦楽の流派によって異な~

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新内横丁の調べから(29)

海外演奏旅行(18)情熱の国 スペイン公演 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 カタルーニャ州独立問題で揺れるスペインへ20数年振りに出掛けた。 スペインの歴史は世界でも稀有な変遷変化に富んだ国の一つである。120万年以前の人類の痕跡があり、北部には3万5千年前のアルタミラ洞窟壁画の遺跡もある。また多くの民族に依って侵攻され占領され目めまぐるしい領土の歴史が繰り返されて来た。特にイスラムによる永い支配が今日のスペインに多大な影響を残していて興味深い国である。 今回は紛争中バルセロナではなく首都マドリードでの公演となった。 新内3名、日舞1名、八王子車人形3名とギタリスト一名の計8名の構成で~

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新内横丁の調べから(28)

海外演奏旅行(17)北欧の美女大国 バルト3国 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 2011年に行われたバルト3国と聞いても何処にあり、どういう国かを知らない日本人が多いと思われるので、先ず3国の位置や国の説明簡単にをしておこうと思う。 バルト海に面して北からエストニア・ラトビア・リトアニアで、3国とも大方面積が同じ小国である。高い山もなく殆ど平地で最高で300メーターである。 3国とも第二次世界大戦中にソビエト連邦に占領されていたが、1991年に其々が独立した。似たような国だが然し各国の民族も歴史も言語も文化も異なる。 が共通しているのは、美女が多い事?余談ながら男女の比率が女性100人~

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新内横丁の調べから(27)

邦楽界初の「天覧演奏会」後記2 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 演奏に際し舞台と客席との高低の位置関係が私は気になった。狭い会場であり、特別席もなく一般の席と同じである。舞台上の私の高さが客席の両陛下のお席より上では失礼と思った。そこで山台の高さを低くして、私の目線が両陛下の足元辺に行くようにご配慮して2曲を無事演奏した。 終演後、演奏者一同が両陛下との懇談に招かれて「御休所」へむかう。ドアを開けると両陛下が御立ちになって待っていらっしゃった。私が先頭に立ち、おずおずと入り両陛下に御礼の御挨拶を申し上げてから出演者を紹介させていただく。 その後、天皇陛下と皇后陛下が別々に我々一人一人に~

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新内横丁の調べから(26)

邦楽界初の「天覧演奏会」後記1 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 それは一言の「言葉の種」から芽が出て実がなった。 平成17年9月10日紀尾井小ホール[鶴賀若狭掾リサイタル]に天皇・皇后両陛下がお出ましになった。邦楽界では初の歴史に残る個人の天覧演奏会が催行された。 平成13年に重要無形文化財保持者に認定され認定式の後に皇居に招かれた。7月の猛暑の日であった。陛下よりお言葉を仰ぎその後お茶会が催された。その席の配置が私にとって幸運であったと思う。 両陛下とのお話の中に新内の説明や新内界の現状実情を申し上げた。最後に私の隣の皇后様に「是非一度新内をお聞き願いたいです」と申し上げたところ「新~

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新内横丁の調べから(25)

海外演奏旅行(16)ポーランド編 ② – クラクフ公演 慈善真心に感動 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 日本とポーランドの関係は歴史的に深い強い絆があり、親日、知日国として知られる。それ故に日本の文化芸術に憧れを持ちそしてよく学んで理解する国民のようである。ポーランド人と日本人は気質や感性が似ているともいわれる。 当地を初訪問したときから私はそう感じ、親しみを強く覚えた。 また今回の演目の選定も良かったのか、公演は字幕を出さなくとも、観客(99%ポーランド人)の皆さんが、曲の内容を正確に理解してくれたようで、終演後のレセプションでそれを実感した。 世界的な映画監督で、昨年9~

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新内横丁の調べから(24)

海外演奏旅行(15)ポーランド編 ① – 東日本大震災直後のポーランド公演 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 あけましておめでとうございます。酉年の幕明けです。 地震国日本。昨年も熊本地震があり甚大な被害を受け、復興もままなりません。また東日本大震災から早くも6年が経過しようとしています。 悲しみは突然にやって来る。天災は忘れた頃にやって来る。いや日本人は忘れてはいません。 日本は災害の国です。毎年毎年、地震や台風水害と火山爆発が各地で起きて大きな被害を被っているのです。しかし東北地震は余りにも大き過ぎて想定外であり、人間の予想をはるかに超えた天災でした。 その日本中が騒然と~

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新内横丁の調べから(23)

海外演奏旅行(14)イギリス編 ③ – スコットランド 古都エジンバラで詩を原語で語る 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 目的地訪問の運転は僕もやるがほとんど弟子の鶴賀伊勢吉がハンドルをにぎり、僕がナビゲーター。鶴賀伊勢吉は免許取立てであったが良く頑張った。本来の新内の仕事より骨が折れたと思う。 ロンドン市の中心部の道路は慣れないと非常に分かり難い。迷って何処を走っているのか分からなくなって往生した。だが郊外は殆ど信号がなく、ラウンドアバウト(ロータリー)が大変に合理的であると感心した。日本にももっと取り入れるべきである。 ロンドン市内から一路北へ車を走らせた。なだらかな丘陵~

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新内横丁の調べから(22)

海外演奏旅行(13)イギリス編 ② – イングランドで心が通う演奏会 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 文化交流使の仕事が始まった。まず落ち着く先の確保。長逗留なので適宜の宿を見つけねばならない。当地で依頼した日本人コーディネーターに全て任せてあるが、果たして初めの宿は酷くすぐ変えてもらう。初めから難儀の連続であった。どうにか捜して落ち着いた。 訪問の初めの第一歩はレンタカーを借りる事である。これがまた簡単ではない。滞在中借りっぱなしではないのでその都度借りにバスで出掛けて行く。移民が多いので英語の発音が悪く(弟子の鶴賀伊勢笑が言ってた)手続きも面倒臭いが、毎回借りて兎に角走~

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新内横丁の調べから(21)

海外演奏旅行(12)イギリス編 ① – 文化庁の文化交流使の海外派遣伝統と誇り高き英国 EU離脱以前のUK 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 文化庁が芸術家や文化人等、文化に携わる人々を文化交流使に指名し、世界の人々に深く日本の文化を理解していただき、外国人とのネットワークの形成・強化につながる活動を展開すること事を目的とする事業がある。ジャンルは多岐にわたり古典芸能全般、洋楽、作家、囲碁将棋、書家、華道茶道香道、庭師、左官、染色家、太鼓に津軽三味線等々と様々である。 その文化交流使に私が平成21年に指名された。私は海外公演で世界各国を廻っているので、その経歴から選ばれたので~

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新内横丁の調べから(20)

海外演奏旅行(11)フランス編 ⑤ – ワインの街ボルドー、新内に酔う 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 あまり変化のない田園風景の中、快適な車中でボルドーへ到着。 ホテルは駅の近くで便利は良いが、部屋も設備も従業員もパリと同じ程度のホテルでもう慣れた。ボルドー市には路面電車が市内を走っているので、移動にタクシーを使わずに便利である。 世界に名高いワインの街であるボルドーへは美味しいワインが飲みたくて来た訳でもないが、大いに期待はして来た。当然ながらその前に演奏公演が控えている。 市街地から車で30分程の場所にある会場は、どちらかと云えば若者向けの公開スタジオステージで、日本~

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新内横丁の調べから(19)

海外演奏旅行(10)フランス編 ④ – パリの空の下、新内は流れる 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 前回の渡仏から半年後の11月に、公演本番のため8名でパリに入った。今度は中型バスの出迎えで何の心配もなく市内に到着した。 新内3名、日舞1名、八王子車人形2名、照明1名。随行1名の計8名は、そのままパリ日本文化会館へ直行した。 随行のステファニー(伊勢笑)は下見にも同行したが、私の海外公演には度々同行していて、通訳や舞台スタッフの一員でもあり、私の付き人として、何かと世話になり本当に助けて頂いている有り難いお弟子さんである。そして何時も自費参加である。日本人より日本人的の処が~

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新内横丁の調べから(18)

海外演奏旅行(9)フランス編 ③ – パリの空の下、災難に遭遇す 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 30年振りにパリヘ行ったのが1昨年の6月であった。11月に催す公演の下見と打ち合わせを兼ねて、私と舞踊家の花柳貴比さんと弟子の伊勢笑の3人で出掛けたのである。 パリ市街は東京と違って新しい高層ビルが建てられないのか、条例で変えられないのか変えなのか、30年以前と余り変わっていないように感じた。 会場予定のエッフェル塔近くのパリ日本文化会館へ行き、照明音響等の舞台機構の確認、演目の相談の為に来た。 公演なしの下見の気楽な旅とのんきにやって来たが、それがいやはやとんだ目に合った。 ~

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新内横丁の調べから(17)

海外演奏旅行(8)フランス編 ② – アヴィニヨン国際演劇祭参加 II 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 前号のフランス公演の話は30年以上前であった。当時は神楽坂の母の店「喜久家」が営業中で、母が現在の私と同年代であり、流行る店を達者に切り盛りしていた。私も新内活動の傍ら買い出しや、包丁を握っていた。 その開業中に1月半も、店や幼い子供を置いて海外公演に出たとは、今思えば母に迷惑を掛けたと申し訳ない事をしたが、然し楽しく得難い体験と観光をさせてもらった。 モンペリエ音楽祭からアヴィニヨン演劇祭まで、10日間程仕事はなく、その間を利用してドイツ・スイス・イタリアを廻った。トー~

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新内横丁の調べから(16)

海外演奏旅行(7)フランス編 ① – アヴィニヨン国際演劇祭参加 I 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 アメリカ公演は20か所以上の公演で、ハプニングや楽しい辛い切ない想い出が多くてまだまだ書き足りない。 その面白い紀行はまたの機会に譲るとして、今回からヨーロッパ公演紀行文としましょう。 ヨーロッパは約20カ国出掛けた。二度行った国もあり都市では25か所以上(学校含む)で公演した。 最初に訪れたのは30年前にフランスでの公演であった。古い事ではあるがかなり鮮明に記憶している。 それは初めてのヨーロッパ旅行であるし、若かったので尚更感動が強く、多くの楽しい想い出が未だに忘れる事~

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新内横丁の調べから(15)

海外演奏旅行(6)アメリカ編 ② – アメリカ名門大学での公演 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 私の海外公演は殆ど八王子車人形との共演であると、既に何度も紹介しているが、果たして車人形とは如何なる人形であるかを説明していなかったようなので、そこで簡単にこの人形の仕組みを説明しておきましょう。 車人形は約200年以前に埼玉県入間にて初代西川古柳が創案した。その後多く人達により改良を重ね、また文楽の人形遣いの指導を受けて今の形を整えて来た。 明治の初めに2代目西川古柳が八王子で継承し現在に至っている。 人形の大きさは文楽人形と同じだが、文楽との違いは一人遣いで、遣い手は箱型の「~

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新内横丁の調べから(14)

海外演奏旅行(5)アメリカ編 ① – 英語新内 西海岸とハワイ4島 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 私が人間国宝に認定されてから、都内をはじめ地方でも祝賀会が開かれ、その上新内演奏も多くあり多忙を極め、ついにその年の10月に過労の為にダウンしてしまった。 又その年に神楽坂商店街振興組合の名誉組合人の称号を授与されたのでした。 現在まで商店街の振興のお役に余り立っていないので、常々心苦しく感じている次第です。でも日本各地や世界各国へ演奏に出かける折には、必ずトークの中や自己紹介では神楽坂の事を話題にして、多少なりとも宣伝をして役目を果たしている積りではいます。 その病後に無理~

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新内横丁の調べから(13)

海外演奏旅行(4)南米編 – エクアドル新内記行 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 エクアドル共和国と云えばガラパゴス諸島であり、イグアナの生息地として名高い。同国最大の都市のグアヤキルへ空路入国した。この海辺の町はガラパゴスへ行く船の発着所。我々のホテルの前がイグアナ公園で、イグアナが放し飼いになっている。イグアナは爬虫類特有の恐ろしい顔つきだが、余り動かないおとなしい性格ので、背中をなでたりしてもじっとしている。同行の女性達は「可愛い!」と言って触っていたが、どこが可愛いのかな?と不思議。 日本と関係の深いと思われる実業家に郷土料理をご馳走になったが、何を食べたか覚えてい~

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新内横丁の調べから(12)

海外演奏旅行(3)南米編 – スペイン語新内 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 ブラジル国内を5か所のうち、初っ端のブラジリヤ以外は、この調子でポルトガル語を交えて公演した。 ラテン系の人は明るく陽気で感情表現が素直であるから楽しい。こちらサイドも浮き浮きと乗って演奏し甲斐がある。 リオでは山の上のキリスト像のある場所まで登った。お弟子の制止を振り切ってヘリコプターに乗り、遊覧飛行で眼下にコパカパーナの海岸を見て楽しんだ。また休みの日を利用してイグアスの滝へも出かけた。 ブラジルの5都市を大成功を納めて次の国のウルグアイへと入る。 余り日本とは馴染みの薄い国であろうと思う。南~

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新内横丁の調べから(11)

海外演奏旅行(2)南米編 – ポルトガル語新内 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 さてその方法は如何にして取り組んだか。前号をお読みでない方に、幾分説明をしよう。 ブラジル公演の初日に「新内・車人形」の上演が、観客に理解されずに散々の目に会い、大使館から苦情が出たのであった。さあこの以後どうしようと言う事になった次第。 その為に上演演目の内容も少し精査熟考し、修正したり詰めたりし、又解説文もわかり易く舞台上で説明させた。然しこれだけではどうも物足りないような気がした。そこでまた考えた末に良い方法を思いついたのである。 新内のセリフの箇所を現地語で語ることにした。当所はブラジル~

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新内横丁の調べから(10)

海外演奏旅行(1)南米編 – ブラジリア初日に窮す 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 私の子供の頃には、滅多に外国人を見る事はなく、まして神楽坂には殆ど姿をお目にかからなかったものだ。 わが母校の津久戸小学校の5年生の時に、帰国子女が編入して来た。その子の持ってくるアメリカ製の鉛筆や、消しゴムの良い匂いに驚いたりうっとりしたものだった。 その程度しか外国の記憶がない子供時代であった。 それが今やどうだろう神楽坂の外人さんの多い事たるや。それも観光客ではなく、神楽坂在住の外国人が多い。特にフランス人が多く、街でフランス語が飛び交っている。近くにかなり以前からフランスの学校があっ~

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新内横丁の調べから(9)

美空ひばりさんの舞台と新内 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 天才とは、天から与えられたような、人の努力では至らないレベルの才能がある人を指すそうです。 私の知っている芸人の中では美空ひばりさんもその一人。 その美空ひばりさんの新宿のコマ劇場連続出演20周年の記念特別公演があった。11月、12月の二か月の舞台公演の話がまた東宝から来たのである。昭和58年でしたからもう昔の事だが、私にとっては生涯忘れ得ぬ想い出である。 山田五十鈴さんの時とはまた違った喜びであった。 云うに及ばずながら毎日満員で、熱狂的フアンで埋め尽くされていた。その人気は今更私が述べるまでもないが、間近に観たその光景はた~

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新内横丁の調べから(8)

新内が東宝の舞台で輝いた 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 1と月興行で2大役者の山田五十鈴さんと歌舞伎の尾上松緑さんの新内演奏は、新内フアンならずとも大喝采の大喜びの舞台であった。新内も大いに輝いた。 山田五十鈴さんが戦後間もなくの頃、神楽坂の和菓子店の五十鈴の宣伝に頼まれて来たことがあった。駕籠に乗って神楽坂通りを道中してお店に来たのを覚えている。 そのことを山田さんに話したら、少し覚えていらした。 さてその鶴八鶴次郎の劇中の演奏に使われているのは、本来「東海道中膝栗毛」の赤坂並木の段だが、この曲だと聞かせ処が少ないので、あえて「明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)・雪責め」を提案~

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新内横丁の調べから(7)

山田五十鈴先生・尾上松緑先生との想い出-1 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 どなたの紹介だか全く記憶にないが、東宝の製作部から榎本滋民先生の芝居に出ないかとの電話が入った。 「榎本滋民作・演出で山田五十鈴さんの絵巻シリーズで、帝国劇場の4月公演です」との事であった。 近世の映画演劇を含めての最高な大女優・女役者は山田五十鈴さんであると当時も現在も私は確信している。 その山田さんの舞台に新内の「出語り」での出演要請であった。「出語り」とは舞台上に設けた床台の上で観客に見せ て演奏をする事である。歌舞伎ではごく当たり前だが、帝国劇場では昭和に入ってから初めての事であった。 40歳少々の自分~

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新内横丁の調べから(6)

向田邦子さんとの想い出 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 その頃の二階の稽古場へは外階段から上がった。 その階段を下駄の音をさせて上がって来た人がいた。 和服を着た若い可愛い女の娘である。「志ん朝師匠の使いで来ました」何でしょうと聞くと「師匠の都合が付かないので代わりに座敷へ行ってくれないか」との言伝だった。 女性のお客で神楽坂の料亭との事。「分かった」と承諾した。その当夜だったか、数日後であったかは記憶してない。 弟子を一人連れてその座敷へ伺った。部屋には三人の中年の美女が座って飲んでいた。落語家の代わりに新内屋が来たので、三人はどう思ったのかな…歳は志ん朝さんと私は同い年~

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新内横丁の調べから(5)

私の芸を彩る出会いの妙(その1) 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 母の店「喜久家」は私と父の2人の新内芸人のスポンサーであったと前号で書いた。然し経済面だけ応援の「喜久家」ではなかった。店のお客さんの中から私の支援者、後援者、理解者がそしてフアンが現れてその全員が私の恩人。 新内を初めて聞く新内初心者が、次第に私のフアンとなり新内愛好者となって私を育てた店の常連のお客さん。或いは邦楽関係者や演劇界の方、そして作家の先生方々等を紹介してくれた客人酔人と粋人達。その人脈が繋がり延びて広がって行き、私の世界が大きく開けて今日が在る。 その喜久家の常連さん方の懐かしい出会いの縁を振り返る。神楽~

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新内横丁の調べから(4)

江戸伝統音楽 新内の衰退の危機 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 私は津久戸小学校の出身。祖父、父、娘・息子、孫と五代に亘って同小学校であるから、神楽坂でも珍しいかも。 中学・高校は牛込原町の成城学校の卒業。近頃は分からないが私達の時代は、津久戸小から成城中学へ進学する生徒が神楽坂には多くいた。現在でも先輩や後輩達と懐かしい顔にお目にかかり、地元はいいものだと実感する。 私の新内の道は親の代からとはいえ順調には来ていない。 6歳の6月6日は戦争の激しい最中であったし、戦後も数年は稽古する状況でもなかった。親父が稽古を再開したのが昭和24年の頃で、私が4年生時代であるから、その頃から始めた~

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新内横丁の調べから(3)

母の「喜久家」は新内親子のスポンサー 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 能は室町時代に足利将軍家の庇護後ろ楯で成り立った。音楽も絵画も芸術は総てスポンサーがあって育てられた。 比べてずっとズッーと小さいが親父も私も同様であった。 親父の新内人生は昭和の初期から戦中に掛けてであるからそれは過酷な時代であった。芸どころでなく当時の芸人の入隊しない連中は軍事工場へ働きに行かされた。当時の新聞に掲載されている。そういう事情の事ゆえ、一家5人の生活は芸では食っていけない。また戦後も尚更の事であった。昭和21年に疎開先から戻り、復員した大工の叔父さんに焼け野原の現住所に家を建ててもらった。当時は私の~

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新内横丁の調べから(2)

初代鶴賀伊勢太夫と泉鏡花 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 私の曾祖父は岐阜(美濃)の出で、若い頃に船で江戸に出て来たと寺の過去帳に書いてある。 その子(祖父)はどういう理由かは判らぬが車屋を営む。 本多横丁を入った右手に「武蔵屋」の屋号で、盛りの時分は50人程の車夫を抱え、神楽坂の花柳界の人力車運輸を一手に引き受けていたようであった。 祖父には男ばかりの6人の子がいた。中に一人くらい商才に長けた子がいたならば、私はひょっとすると今頃は、タクシー会社の社長に治まっていたかもしれない。 その6番目の末っ子がわたしの父で初代鶴賀伊勢太夫である。粋でシャイで洒脱な芸人であった。常に着物の生活で~

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新内横丁の調べから(1)

愛する神楽坂 今は昔 人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくの如し……世の無常観漂う鴨長明の「方丈記」の冒頭です。 神楽坂生まれ育ちの神楽坂四代目で、戦中の強制疎開の期間を除いて74年間住みついている私は、神楽坂の変遷を眺め暮してきた。老舗の多くが消え、かつ住人も当然新旧交代し、出入り目まぐるしく、雰囲気も一変した。 私の家は戦前も今の場所であった。厳密にいうと住まいは現東京都教育庁庁舎(戦前は赤城小学校)の隣の小~

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