新内横丁の調べから(5)
私の芸を彩る出会いの妙(その1)
人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾
母の店「喜久家」は私と父の2人の新内芸人のスポンサーであったと前号で書いた。然し経済面だけ応援の「喜久家」ではなかった。店のお客さんの中から私の支援者、後援者、理解者がそしてフアンが現れてその全員が私の恩人。
新内を初めて聞く新内初心者が、次第に私のフアンとなり新内愛好者となって私を育てた店の常連のお客さん。或いは邦楽関係者や演劇界の方、そして作家の先生方々等を紹介してくれた客人酔人と粋人達。その人脈が繋がり延びて広がって行き、私の世界が大きく開けて今日が在る。
その喜久家の常連さん方の懐かしい出会いの縁を振り返る。神楽坂近辺には新潮社や旺文社、東販等出版屋多く、店にもそのお客さんが大勢来店。近くには中央公論の倉庫もありそこの若い社員は全員が喜久家の客だった。その中に早稲田大学の名門水泳部のOBが数人いた。山中選手や吉無田選手と同年代である。と云っても知っている人は余りいないかなァ。でもとにかく日本を代表する水泳選手達であった。彼らの一人が当時水泳部OB会会長の文化放送の友田社長を紹介してくれた。早速訪ねると快く迎えてくれて芸能関係の社員に合わせて下さった。この人との出会いがその後の私の交友関係の幅を大いに拡げてくれた。
当時は盛んであった放送劇の優秀な演出家で、10年間術祭賞を取り続けた人「鈴木久尋」さんがその人。それから40年近く今でもお付き合いをしている。
その鈴木さんに最初に紹介して頂いた方が大林先生であった。直木賞候補にも度々上がった売っ子作家で、放送作家としても戦後一世を風靡した。NHK放送劇「かくて夢あり」やTVドラマ「あの波の果てまで」は大ヒットした。
先生との出会いは新橋のスナックバーで、地下にある店のカウンターの椅子に先生は悠然と腰かけて飲んでいた。
ダンディーで男前で上品で優しい落ち着いた方だと、今でも鮮明に30数年前のその時を記憶している。
以来約30年間お付き合いをさせて頂き、受けたご恩は計り知れない。また良く遊び良く飲み良く旅行した。
先生が理事長で創設されたアジア放送文化協会の理事に私を推薦してくれた。私以外は各放送局の錚々たるメンバーで実演家は私だけ。その協会で海外や国内旅行に度々出掛けた。それの全てが招待の豪華旅行であった。韓国ではVIP扱いの一週間で色々と楽しく遊ばしてもらった。
国内は数え切れない程各地を旅し、その都度私が運転して観光して回った。ある時奥湯河原温泉の高級旅館へ2泊して豪勢に遊んだ事があった。3日目に帰る朝、先生が「太夫(私)もう1泊しよう」と誘われ、他の方々は帰り、2人で大野屋旅館へ行き昨晩の芸者を呼び賑やかに遊んだ。明朝勘定の段にお金が全然足りない。先生と居残りも出来ないので会計理事を東京から呼んだ。安心して朝からまた飲み始め、お金を持参して来た理事と一緒にその夜、派出に遊んでしまってもう1泊となる。先生は半端ではない酒豪であった。晩年までウイスキー1本を一晩で空けていた。
芝で生まれた生粋の江戸っ子であるから気風良く、繊細で豪快で粋人。先生の大きな声、怒鳴り声そして怒った処を見た事が一度もない。このような立派な人格者で素敵な紳士であった恩師の先生を今以て私は敬愛して止まない。
昔の仲間が集まる飲み会の席で、先生が突然遺書を読み始めた。それ程弱っていない身体なのにと全員が驚いた。私は涙をボロボロ流した。亡くなる10日程前であった。
先生没後、苦労をかけた愛妻を想い読んだ句が見つかった。
夏逝きし 妻にしあれば 大島の 白きを着せて棺におさめぬ (他7句)
(続く)