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新内横丁の調べから(6)

向田邦子さんとの想い出

人間国宝鶴賀流十一代目家元 鶴賀若狭掾

その頃の二階の稽古場へは外階段から上がった。
その階段を下駄の音をさせて上がって来た人がいた。
和服を着た若い可愛い女の娘である。「志ん朝師匠の使いで来ました」何でしょうと聞くと「師匠の都合が付かないので代わりに座敷へ行ってくれないか」との言伝だった。
女性のお客で神楽坂の料亭との事。「分かった」と承諾した。その当夜だったか、数日後であったかは記憶してない。
弟子を一人連れてその座敷へ伺った。部屋には三人の中年の美女が座って飲んでいた。落語家の代わりに新内屋が来たので、三人はどう思ったのかな…歳は志ん朝さんと私は同い年だが新内と落語では…。何を話したかあまり記憶にないが、新内の話と新内界の実情などを色々としたと思う。
新内伝承の危機を訴え、私が宣伝普及活動や、新内に対する取り組みが向田さんの心を揺るがしたのか、面白いと感じたのか、それ以後種々と協力して下さった。昭和50年頃であったので先生も未だそれ程売れっ子作家ではなかったのか、雑誌などにエッセーなどを書いていた。
明年、早速に月刊誌アンアン掲載の「男性鑑賞法」なる欄の取材を受けた。現在でもエッセー集「夜中の薔薇」の中にある。また私の新内演奏会に来てくれたし、パーティにも出席してくれた。在る時向田さんから速達が届いた。電話もあるのに速達とは何だろうと急いで読むと、妹さんが赤坂に開いた小料理店の開店招待状であった。今はもう大分前に閉店してしまった「ままや」であった。初日だか二日目に友を連れて伺ったが向田さんは居なかった。呼んでおいていないとは…と電話をして呼び出した。執筆中だったらしいがすぐ来てくれて夜更けまで飲んだ事もあった。
渋谷の代官山の小川軒の裏手に小山亭なる日本料理店があった。歌舞伎や文楽のイヤフォンガイドを導入した小山觀翁先生が開店した、当時は珍しい和食のディナーショーの店であった。この料亭「小山亭」に出演する芸人は超一流の名人ばかりであった。この舞台に私の親友の縁で新内を演奏する機会を得た。まだ40代の若造の私などの青二才にはおこがましく図々しいと思ったが出演させてもらった。
それも2晩続けてのディナーショーであった。それ以来いまだに小山先生とは親しくお付き合いをさせて頂く。
そのどちらかの宴に向田さんが友達と来て下さった。
当夜はその他にも今は亡き先代の水谷八重子さん、榎本滋民さん他錚々たる方々がお越しになり緊張した。
その時向田さんは黒いスーツ姿で来られた。喪服のようだなと思ったので印象が強く記憶に残った。向田さんのエッセーを読むに至ってそれがやはり喪服で在った事が分かった。そのエッセーも単行本の中に書いてあり書店に在る。茶目っけたっぷりの才人でした。
それから後の在る時電話があり、雑誌のコマーシャルに一緒に出ないかと誘われた。アパレル会社だったが喜んで承諾をした。だが然し私がその撮影の日取りに北海道へ仕事に行く日であった。カメラマンがその日しか空いてないのでNGとなった。残念無念。今に思えば北海道の稽古を変えれば良かったと悔しがる。向田さんがその後間もなく飛行機事故死に合うとは思わないし。
縁結びの古今亭志ん朝師も向田さんの両天才も今は無し。凡才は長生きしてせめて新内の為に尽くせ…か。
ああ諸行無常なり。

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