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新内の発展

三味線音楽

日本の伝統音楽の一つである三味線音楽は15のジャンルに分かれる。大阪で生まれ文楽人形と共に今日に至る義太夫節、京都の一中節、江戸で生まれた豊後系浄瑠璃、長唄、小唄、地唄、荻江、歌沢、宮薗等等今もって継承されている。

唄物(うたもの)と語り物(かたりもの)

三味線音楽は、唄物(うたもの)と語り物(かたりもの)に大別される。 どちらも三味線を伴奏楽器として、唄物は物語や情景を叙事的に唄い、浄瑠璃は物語を叙情的に語る。浄瑠璃の方が幾分感情移入が多くドラマチックである。
唄物には長唄、地唄、小唄、端唄、荻江などがある。
語り物は浄瑠璃物ともいわれ、義太夫、豊後系浄瑠璃の新内・常磐津・富本・清元(江戸浄瑠璃4派)等がある。各々それぞれ曲調の特色があり、節も発声も違い、三味線も棹・糸の太さも、駒も皮の厚みも張り具合もそして撥の大きさも厚みも目方も、その上材質まで違うジャンルもある。 語る演目(文章)も流派によって異なる。
表現の方法と形がジャンルによって異なり、それぞれの特性を出して聴衆に訴える。各流派が特徴ある表現方法と演者の個性が三味線と語りにのって、あるときは豪快に繊細に、優雅に大胆に、激しく優しく、嬉しく哀しく、大小細太と、愛欲と涙と喜びの織り成す人間模様を美しい日本語で創造する。

新内流し

新内と言えば新内流しをイメージする人が多い。粋な着流しに男は吉原冠り(よしわらかむり)、女は吹き流しの手拭いで三味線を弾きながら廓や花街を流して歩く。客の求めに応じて屋外から、ときには座敷に招かれて演奏する。
30年前まで吉原、深川、柳橋、浅草、神楽坂等で見受けられたが、今は全く見る事がなくなった江戸情緒あふれる風物詩である。三味線の曲は「らん蝶」の一節で唄(語り)を入れないものをアレンジしている。江戸時代の末期頃からの出現のようである。

江戸浄瑠璃

江戸浄瑠璃=新内は浄瑠璃の一派であり初代鶴賀若狭掾を始祖に1760年頃生まれた。
一中節の始祖・都一中(みやこいっちゅう)の門人である都半中は、1730年頃に京都から江戸へ 出て宮古路豊後と改名(後に豊後掾)して豊後節を創った。官能的で頽廃的な曲調は江戸市民に一大ブームを巻き起こし大流行となった。
しかしその頃江戸にて心中が流行しており、その原因が豊後節の流行と結びつけられ、また風紀上の理由と 他の幾つかの理由とを付けられて、豊後節を語ることを禁じらた。その上稽古する事も名前を使う事もすべて禁止という弾圧を受けたのである。
そのために宮古路豊後掾は京都へ戻り芸を捨てたようである。
しかし江戸に居る門人たちは困った。芸も出来ず生活もできない。そこで門人は宮古路や豊後の名を捨てて名前を変えて新しい歌詞と曲を創り始めた。
その中の一人が常磐津節・富本節・清元節そして新内節を創設した。これを江戸浄瑠璃4派と呼ぶ。親を同じに生まれた4派であるがそれぞれが新作を創り独自の道を歩み始めた。常磐津・清元は主に歌舞伎や舞踊の伴奏音楽となり発展をした。新内は他の芸能とは提携せず素浄瑠璃の形態で今日まで続いて来た。
新内の始祖である初代鶴賀若狭掾は、他の豊後節系浄瑠璃とは違い江戸三座には出演せず、座敷浄瑠璃、素浄瑠璃(すじょうるり)として他の芸能とは提携せずに発展し、多くの作品を残した。その若狭掾門下から盲目の鶴賀新内が現れた。彼の鼻に抜ける美声の新内に人気を得て大当たり。そのためいつの間にか鶴賀節が新内節と言われるようになった。
他の豊後系の諸流とは別の芸風を生み、素語りの自由な語り物としてもっぱら遊里を中心に定着し、いっそう官能的、情緒的な語り口となり、庶民から愛される身近な音楽となった。
今日に伝わる新内はさらに洗練されて高低の旋律が変化に富み、そして語り口は嫋嫋(じょうじょう)として哀調切々と繊細にまた大胆に聞く人の心に訴える。このような物悲しい雰囲気をもつ新内は心中の美学といわれ、心中を美しく謳いあげているとも云われている。
また新内の三味線は他の流派にはない特有の美しさを奏でる。本手と上調子の二挺の三味線が織り成す美しく繊細で優雅で微妙な音色は切々と心に響く。

1. 高座用見台 2. 高座扇子 3. 床本(歌詞本)4. 高座湯呑 5. 高座用座椅子

 

鶴賀流新内の系譜

初世 鶴賀若狭掾
宝暦元年(1751年)独立改名して鶴賀節を確立し始祖となる。敦賀の出身で、幼少にして江戸へ出て御家人の養子となる。その後養家を出て宮古路加賀太夫の門下となる。宮古路・富士松時代よりも所作事の間拍子を無視して、語り物自体としての特色を出し、豊後節のもつ哀愁味を一段と深めた曲調を創造した。今で言うシンガーソングライターとして素晴らしい才能を発揮した名人で、多くの名曲を今に残している。主な作品として 「若木仇名草(らん蝶)」「明烏夢泡雪」「尾上伊太八」等があり、また義太夫物から新内へ移曲した作品も数多く残っている。

二世 鶴賀鶴吉
初世の娘。義太夫節や他の豊後節系の浄瑠璃の曲調を新内節に取り入れ、曲節は複雑となりテンポもはやくなり、新内節を新鮮な浄瑠璃とした才女。移曲作品には「関取千両幟」等

三世 鶴賀鶴吉
二世家元の娘。門下にいた鶴賀加賀八太夫が改名し、富士松魯中を名乗った新内中興の祖である。

四世 鶴賀新内
盲目の新内語りで、鼻に抜ける美声は一世を風靡したと言われる。それまで鶴賀節と言われたのが彼の出現に依って以後新内節と呼ばれるようになった。

五世 鶴賀若狭太夫
三世家元の婿。芸の技量がなかったようだ。明治24年(1891年)に没して鶴賀の直系は絶える。

六世 鶴賀新内
社中から推挙されて明治25年(1892年)築地魚市場頭の鈴木重太郎が家元を継承した。

七世 鶴賀新内
六世の息子。

八世 鶴賀若狭掾
七世の息子。18才の頃に家元を継承し、鶴賀若狭掾を襲名する。芸風は節は複雑繊細にして、詞(コトバ)は巧緻で、語り物(浄瑠璃)の新内の語り口は今なお定評を残す。

九世 鶴賀若狭太夫
社中頭として推挙されて家元となる。前名鶴賀繁太夫。昭和63年(1988年)没。

十世 鶴賀若狭
九世の息子。新内の三味線方として初の家元となる。平成11年(1999年)没。

十一世 鶴賀若狭掾
第十一代鶴賀流新内家元

 


神楽坂の赤城神社にて

初世鶴賀若狭掾直筆の掛軸
(入門者への心得をといたもの)
自然の中の音にも 皆音律を得たる徳があるが今の人はそれがわからない。この門に入門したる者はよく花鳥風月に学び 愈々精を出すべし

鶴賀流家元系図

鶴賀流家元代々の焼判